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実店舗をひとまず閉店することにしました■写真は<ザ・ストーンズ・バザール>店内 08:43
ストーンズバザール店内
特大エレスチャル

<閉店セール> 
杉並区西荻窪の実店舗<ザ・ストーンズ・バザール>は創業30周年をひとくぎりに
閉店することにしました。ながくご愛顧いただきましたことお礼申し上げます。
この1年間に通販でご注文くださったお客さまには郵便葉書でご案内しました。
またHPで告知したりツイッターでお知らせしているように、
7月21日から9月10日まで、全品5〜7割引のクリアランス・セールを開催して、
閉店は9月10日になります。
11月が店舗の賃貸契約の更新月なので、閉店セールはこの時期になりました。
閉店後は日本ヒスイ製品中心のネットショップのみを継続します。
新規ホームページのアドレスなどは当社HPをご参照ください。
新たなHPでは新規開発製品やバーゲン品をたくさん紹介していきます。
今後ともよろしくお付き合いください。


<閉店セール> 
ファイナルセールはごく一部のセール対象除外品を除いて、定価の5〜7割引。
ホームページで20%OFFや30%OFFの表示が残っているものも
定価にもどってそこから5割引。
50%OFFや70%OFFの製品は表示の割引率になります。
倉庫が手狭なゆえのクリアランス・セールです。
たとえば来店するお客さんみんなが目を見張る「特大エレスチャル 
23.4kg,430x300mm¥1,800,000」は5割引すると¥900,000。
広い場所があったら自分で買い取りたいほどの神々しさ。
その他長大な「ヒマラヤ水晶タントリックツイン 29.3kg」
「グリーンフローライト群晶 17.5kg」など、
ミネラルショーでも目にしにくい逸品がたくさんあります。
ご注文またはお問合わせくだされば、折り返し割引価格と送料をお知らせします。


<閉店セール> 
この特大エレスチャルにはちょっとした逸話があります。
20年ほど前、石ヤの羽振りがよかった時代。
あるミネラルショーで知り合いのブラジル人のブースに
最後までこのエレスチャルが残っていました。
「いいね、立派だね」とか、「こんなのは滅多に出ない」と
友人のイタリア人ディーラーといっしょに歓談していたら、
ブラジル人が「安くしとく」といい、それでも相当に大金なのでぼくは買いしぶっていた。
そこに第四の人物が登場。彼はそれを買うつもりになっているようだった。
とそのとき、イタリア人が「おれが立て替えておくよ」と、ポケットから札束をだした。
ブラジル人は第四の男を無視した。
そうやってまるで自分でこちらに来たがるようにしてエレスチャルがうちにやってきた次第です。
石や人との出会いには瞬間ごとに転変していくエキサイティングさがあります。
次にはどこかのおうちで孫子(まごこ)の代まで、
先祖(あなたのこと)の思い出とともにこのエレスチャルが残っていくと思います。
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脳は強度のストレスを自己麻酔して回避する ■日本翡翠原石の写真 08:41
日本翡翠原石
<瞑想と脳・1> 
オーガズムは脳にかかる過剰のストレスによって引き起こされる。
車の衝突時にエアバッグが開くように、脳はストレスに耐えきれなくなると、
脳内麻薬(脳内ホルモンともいう)を放出して自己麻酔することで自分を守ろうとする。
このプロセスは危機に際して死んだふりをする昆虫やある種の獣に似ている。
戦場で大けがをおった兵士が痛みを覚えていなかったり、
臨死体験が多幸感に包まれたものであるのはそれゆえのことと解釈できる
(臨死体験は死後の世界を証明するものはなく、機能を閉じていく脳がみる夢だ)。
推察するに瞑想もまた脳には大きなストレスになる。
瞑想は脳の働きを規制してかかる。ときには呼吸法によって酸素の供給量を減らされる。
ストレスを緩和しようと自己麻酔することで、意識が変性する。快感の波が身体と心を洗う。
クンダリニーの覚醒のように光と歓喜が爆発することもある。


<瞑想と脳・2> 
脳は爬虫類の脳、原始哺乳類の脳、原人の脳、現生人類の脳、
という具合に衣服を重ね着するように機能を付け足して進化してきた。
だから庭先を走るカナヘビと抽象概念をあやつる人間は
まったく次元の異なる生き物というわけではない。
縄張り意識、求愛行動、食料の蓄え、集団への依存など、
私たちは心の奥底にワニやリスやサルを同居させている。
通勤電車でとなりの男性の肘があたってむかつくのはワニの縄張り意識のせいだし、
恋人を他のオスにとられまいと苦心惨憺するのはワニよりもさらに古い
頭足類あたりの脳のせいであろうし、
趣味のコレクションはもとはといえばリスの時代に餌を貯蔵した本能にしたがっている。
こうした過程のひとつとして、脳は瞬時に逃避行動に移れるよう
機能をアイドリングさせておくよう進化した。言葉を話せるようになってからは、
それは四六時中頭のなかでおしゃべりしつづける習慣になっていった。
瞑想はこうした習性を強引に中断させようとする。
だから脳は百の言い訳を用意して瞑想を中断させようと画策する。
それゆえに瞑想は三日坊主で終わりやすい。


<瞑想と脳・3> 
瞑想やヨーガによってなぜ快感がえられるのか。
シャーマンの脱魂現象はエクスタシーと訳されるが、エクスタシーは恍惚も意味する。
脱魂現象のすべてに悦楽が付随するわけではないが、
自我を脱ぐ行為はしばしば恍惚感・多幸感を伴う。
そういうことを不思議に思ってたくさんの脳生理学関連の本を読んだ時期があった。
回答のヒントはLSDやメスカリンなど向精神性薬物の中毒症状にあった。
脳内麻薬の代表格であるドーパミンは向精神性薬物と成分が似ている。
血液中に溶けこんだこれら薬物は脳内に侵入してドーパミン過剰分泌と同じ状況を引き起こす。
それを体験者がその人なりに解釈することでトリップがはじまる。
宗教的法悦や瞑想の快感は薬物なしでのナチュラルハイで、
きっかけは脳にかかる負荷を、脳が回避しようとして自己麻酔することにあった。
瞑想は脳にストレスをかける。脳は30分間ほどストレスにさらされると変性しやすくなるようだ。
(写真は日本翡翠原石。海によってツルツルに磨かれた。
丸いもの、滑らかなものについて瞑想すると心も丸くなる)
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瞑想を楽しむと天井世界に遊べるようになる 25-27 09:04
三大後利益神
絵柄はヒンドゥーの三大後利益神。日本では瞑想は禅僧の墨染めの衣と結びついて、
しんねりむっつりとじみなものになってしまったが、瞑想の途中では絢爛豪華な世界が開けてくる。
三大後利益神は仏教に取り込まれて、聖天、吉祥天、弁財天になった。


<瞑想と三昧・25> 
禅定の諸段階は意識の純化と同一視され、人間界より上位にある天上人の境地に比定された。
宇宙軸であるメール山(須弥山)にそって積み重ねられた天界の階梯があり、
欲界・色界・無色界の3階層に大別される。
色界と無色界は瞑想などの修行によって意識を純化したもにしか行けない土地であり、
色界は―藾掬掘蔑ダ鹸邀效蓮法↓二禅天(定生喜楽地)、三禅天(離喜妙楽地)、
せ輿掬掘兵稜粟蕎堯砲忘拱化されて、有想三昧を実現した者にのみ入場が許される。
無色界はゞ無辺処地(無想三昧を実現した者の天国)、
⊆洩喫媾菽蓮↓L欺衢処地、と鸛枷鵝港杤菽蓮△反分された。
卑弥呼とほぼ同じ時代、インドでは部派仏教の僧侶たちは僧院のおくに籠って、
こうした妄想とも幻想ともつかぬ瞑想にふけった、
その結果目が眩むほどに壮大で、顕微鏡的に細かな宇宙像が描かれていった。
ここでは神話と思想・哲学が整合性を持つよう企てられた。非常に興味深いことと思っている。
チベット密教では禅定が深まっていく過程は死んでいく道程にも比定された。
死にゆくプロセスは解脱の道に転嫁できた。


<瞑想と三昧・26> 
瞑想による禅定の諸段階について馴染みのな用語を駆使しながら概観してきた。
かつて自分が好んでいたのは、禅定を深めていくというやり方よりも、
意識の飛翔を目指すクンダリニー・ヨーガのような行法だった。
だから有想三昧・無想三昧という分類法や、
欲界・色界・無色界の3階層は自分にとっても目新しい。
蓮の種は千年間土に埋もれた後に発芽することもある。
同じようにいまこれを読んでさして意義を感じられなくても、
十数年後にこの記事を必要とする人もいるだろう。
たとえば45歳の人は15年経てば60歳になる。
そこでは精神世界はいっそう味わい深くなっている。
意識の沃野は旅しがいのある土地柄であることを、やがて多くの人たちが気付くことになる。


<瞑想と三昧・27>  
ニューエイジがさかんだった時代は、マインドセラピーも流行していて
バイオフィードバックという言葉がさかんに使われた。
たとえば気持ちがくつろぐと脳はアルファ波という通常よりも周波数の少ない脳波をだすようになる。
そこでアルファ波状態にある身体や心の感覚を自分で掌握しておいて、
気持ちが落ち込んだり、イライラがこうじたり、対人関係であがってしまうとき、
それを呼びおこせば平静さを取り戻せるという理屈だ。
そのためには呪文をとなえたり、呼吸を「気」と連動させると効果的だ。
同じことは瞑想にもいえて、瞑想時の心身環境をバイオフィードバックできるようになると、
短い時間で禅定に入っていけるようになる。
たとえば腕の表皮細胞が開く、背景雑音に包まれる、身体が石になる、
風景が鮮明さを増す、などの感覚を意図して呼び覚ます。
バイオフィードバックには手指の発汗量をコントロールするという方法もある。
手指の毛細血管の血流を増やすと禅定にはいりやすくなる。
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ヨーガの無想三昧は気絶するのとあまり変わらない 13:05
バジュラ
プルパ
カルタリ

<瞑想と三昧・22> 
記憶ちがいでなければ出家したブッダは最初にタントラ系のヨーギニ(女性修行者)から
瞑想のてほどきを受ける。その後瞑想の技にすぐれていた二人の導師を尋ねる。
●出家したブッダが最初に指導を仰いだアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタは、
無念無想の「無色界禅」の指導者で、アーラーラは「無所有処定」という
虚無そのものを瞑想対象にする高度なサマーディを教え、
ウッダカはさらに微妙な「非想非々想処定」という至難のサマーディを指導していました。p58
(『ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』地橋秀雄、春秋社、2006、から)。
こうやって瞑想の諸段階を概観しても理解は及びがたく、
もっと丁寧なガイドがなければ意味をつかみにくい。
これらは何年もかけて「道」を歩むことで見えてくることがらに属している。


<瞑想と三昧・23>
ヨーガスートラでは瞑想が深まり、心が統一された状態を次のように分類する。
以下は『ヨーガ根本経典』(佐保田鶴治、平河出版、1973)から。
●(1・17)三昧のうちで、尋・伺・楽・我想などの意識をともなっているものは
「有想」とよばれる。禅定は有想のものと無想のものとに分けられる。
有想三昧はそれに伴っている想念の種類にしたがって
〕尋、⇒伺、M楽、ね我想に分けられる。
これら四種の三昧は、精神統一の純化の段階を示している。p72
●(1・18)もう一つの三昧は心の動きを止める想念を修習した結果生じた境地で、
もはや行だけしか残っていない。要するに、
こころのなかに起こってくる思慮分別を絶えず打倒していった結果、
最後に心のなかがからっぽになった状態が無想三昧である。
このとき、意識の表面には一つの想念も動いていない。p73


<瞑想と三昧・24> 
以下は『解説ヨーガ・スートラ』から。
興味を抱いた人たちの入り口となるよう、とりあえず記している。
●(1・17)三昧のうちで、尋(じん)、伺(し)、楽(らく)、我想などの
意識を伴っているものは有想(うそう)とよばれる。p49 
三昧には有想のものと無想のものとに分けられる。
有想の三昧はさらに有尋、有伺、有楽、有我想と分けられる。
経文1・42以下では有想三昧を有種子三昧と名づけ、
これを有尋、無尋、有伺、無伺の4種にわけている。p49
●尋は心の粗大な働き、伺は心の微細な働き。尋はあれかこれかと尋ね求める心、
伺は見当がついたところでこまかく伺察することであるとも説明される。
そういう心理状態が消えて後の心地よい平和な心境が楽(ananda)である。
この楽の境地もなくなって、最後に我想(asmita)だけが残る。p50
●(1・18)無想三昧……心のうごきを止める想念を修習した結果、
止念の行だけが残っている境地である。1・18。
心にどのような思慮もなく、心の中が空虚になった状態。p51

(写真は密教法具のバジュラ(金剛杵)、プルパ(金剛杭)、カルタリ(曲刀)の
3点セット特製品。魔の介入を防いだり、修行者の雑念を押さえたり、因縁を切る働きが強い)
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大昔の修行者たちは瞑想の深まりを9段階にわけた ■日本翡翠大型原石の写真 09:59
日本翡翠原石
<瞑想と三昧・19> 
瞑想は意識を一点に定める。心のぶれが納まった状態を禅定などともいう。
珊瑚礁の浅瀬から深海底まで海の深さにさまざまな段階があるように禅定も深さに応じて分類されてきた。
「ヨーガスートラ」をはじめ、瞑想関連の本から瞑想の諸段階についての記事を抜き書きすると、
個々の意味はわからなくても、先達たちが瞑想の深まりや、意識の変化について、
現代の心理学者たちが及びもつかないほどの熱意をこめて研究してきたことがわかる。
「非想非々想処定」などという熟語にふれると、未踏の領域が心のおくのほうにあることが想像できる。
東洋の精神世界はサーンキヤ哲学、ないし原始サーンキヤ的考え方への理解なしには
歩を進められないということもわかってくる。


<瞑想と三昧・20> 
瞑想の諸段階と関連するブッダの涅槃(他界)について 
『千の顔をもつ英雄・下』(ジョーゼフ・キャンベル、倉田真木他訳、ハヤカワ文庫、2015)
には以下のようにある。
彼は昏睡状態のうちに彼岸へと去ったのではなく、
もっとも深い瞑想状態から戻って自意識をもって肉体を離れた。このことにはおおきな意義がある。
「ここでブッダはニルヴァーナに入った。初禅から第二禅に入った。
第二禅から第三禅に入った。第三禅から第四禅に入った。第四禅から空無辺処に入った。空無辺処から識無辺処に入った。識無辺処から無所有処に入った。無所有処から非想非非想処に入った。
非想非非想処から想受滅に入った。そしてブッダは、想受滅にから非想非非想処に入った。
非想非非想処から無所有処に入った。無所有処から識無辺処に入った。
識無辺処から空無辺処に入った。空無辺処から第四禅に入った。
第四禅から第三禅に入った。第三禅から第二禅に入った。第二禅から初禅に入った。
初禅から第二禅に入った。第二禅から第三禅に入った。第三禅から第四禅に入った。
第四禅からブッダはただちにニルヴァーナに入った」。p253


<瞑想と三昧・21> 
『ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』 (地橋秀雄、春秋社、2006)
にはブッダの涅槃に関連して、以下のようにある。
★原始仏教の瞑想システムは、後に「九次第定」として整理されますが、通例では、
まず具象的な瞑想対象に心を集中し、初禅、二禅、三禅、四禅とサマーディのレベルをアップさせ、さらに無色界禅のサマーディを四つの段階に分け、「空無辺処定(空間の無限性との合一)」、
「識無辺処定(意識の無限性との合一)、そして「無所有処定』、「非想非々想処定」と進み、
最後は「滅尽定」という「知覚も感受も途絶えた『生きている死体』のような
ギリギリのサマーディで終わる九段階です。p64
(写真は34.4kgの大きな日本翡翠原石)

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世界がかくあるのは自分がかくあると思いこんでいるから■翡翠原石の写真 10:49
翡翠原石

<瞑想と三昧・16> 
瞑想について「自分と世界の関係について」の蘊蓄を3話。石に触れる。
そこに精神世界的価値を見るのなら、その彼方にあるのが瞑想と三昧。
最終的な目的地として悟り体験が待っている。
それがいかなるものであるかを知っておくのは、
石に触れる味わいをいっそう意味深いものにしてくれる、そんなふうに考えている。
古代インドでは自分対世界の関係性がどのようなものであるかを熟考して、
世界の構造を分析した。
ブッダ以前の時代の話で、仏教の思想性はこの原始サーンキヤ的考え方に根差している。
世界がかくあるように見えて感じられるのはなぜなのかをたどっていくと、
自我を脱いだ地点に至ることができる。それを解脱とか悟りとよんできた。
そこに着くのは長い旅路であるけれど、一枚の紙のA地点からB地点に到達するのに、
紙を折ってAとBを重ね合わせれば事は済むというのに似ていなくもないようにも思う。
サーンキヤについて学ぶとスピリチュアルな考え方に溺れなくなる。


<瞑想と三昧・17> 
陶器のコップがある。それは言葉によって他と比較分類することで材質や形状を認識できる。
大切な人から贈られたとか、旅行先で記念に購入したとか、有名陶芸家の作など、
個人的な価値観が強調されて愛玩物になる。
そのコップはそのようにたくさんの意味付けのもとに、くっきりと存在している。
けれど意味をひとつづつ剥いでいったら、コップという意味のある実体はなくなってしまう。
相互の関係性によって演出されて、そのコップはコップとして
存在しているように見えているだけのことであることに気付けるだろう。
物質は分子・原子の集合体であり、元素はさらに微小な素粒子からなるというふうに
物理学的な解釈にもとずいてコップをみるなら、
コップは素粒子の雲に映しだされた幻影ということにもなろう。
これに近いことを大乗仏教では「空(くう)」とよんできた。
「空」を悟るのはとても難しい。
巨大な光体験のあとで「空」という状態があることがわかるようになる。


<瞑想と三昧・18>
生きてゆくということの思想性について、当然のことながら私たちは世俗な考え方に染められている。
つねに社会の一員としての自分を考える。自分が退職しても会社は存続していくように、
自分が死んでも社会は存在しつづける。
それゆえに名誉や地位を勝ち得て自我肥大した人たちは、
自分が存在したことの証しとなる記念碑などを残したがってきた。
それに対して、東洋の精神世界で問題にしてきたのは自分対社会との関係性で、
その意味するところの多くは、いかにして社会や物質世界に対する
自分の思いこみに気付くかが最大のテーマだった。
社会とか現実的な物質世界は、それなりに存在しているが、それがどのように存在していて、
どのような意味や価値があるかは、それぞれの人の思いこみによる。
思いこみの全部をはぎ取るなら、いっさいの意味を離れいっさいの関係性なく、
それ自体が独立して存在しているモノはなくなる。
自分の死とともに、自分が思い描いていて、それこそが真実だと信じていた社会は消えてゆく。
こういうことを生きているうちに確認することが瞑想の目的だった。
般若心経にも同じようなことが書いてある。
(写真はミャンマー産翡翠原石。ヒスイ輝石の他にオンファサイト、
角閃石などが入り混じっているようだ)
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蓮の花をブッダが見たように見るのは難しい ■水晶クラスターの写真 12:15
水晶クラスター

翡翠原石や水晶を眺める。心静かな時を楽しむ、
あるは「場」が浄化されていくのを見る。
眺める相手は石ではなくて花や樹木、巨岩でも同じこと、
気持ちが鎮まって、意識は草や木や石や岩と交流するようになる。
その延長線上にここで話題にしている瞑想がある。
瞑想を学ぶと石や草や花たちはもっと親身になる。


<瞑想と三昧・13>
初歩的な瞑想のひとつは、数息観といってひと呼吸ごとに1から10まで数を数える。
意識は移ろいやすくたちまちに雑念にまみれてしまう。
数を数えることを思い出したら、ふたたびそこから数えはじめる。
数息観とは別に、気持ちが鎮まっていく様子を観察、注視するという方法もある。
息をゆっくりと吐きながら「気」が丹田に降りてゆく様子を観察する。
息をゆっくりと吸いながら「気」が丹田に降りてゆく様子を観察する。
「気」が丹田に降りるのと歩調を合わせて気持ちも鎮まっていく。
やがて心がなだらかになっている自分を見ることができる。
そうやってふいに平地から高原に移行した自分に気付ける。
日常的な意識状態を新聞の画像にたとえるなら、変性した意識状態は
高精密度印刷された画集のようにこまやかで、高い周波で振動する電磁波世界にいるようでもある。
努力しないでも深くゆっくりと呼吸できていて、自分が呼吸の天才であるかのように思えたりする。
なれないうちは軽やかな禅定に移行するのに30分ほどかかるのではないだろうか。
ダージリンやウティなどインドの高原の避暑地には特別に甘い空気があることと、
これらのことには共通点があるようにも思える。
きれいな水晶クラスターがあると、水晶にうながされて鎮まっていく自分を体験できる。


<瞑想と三昧・14> 
ひとつの花を同じように見ても、人それぞれに感じ方が異なる。
自分が感じるのと同じような感じ方をする人とはわかりあえるし、
そうでない、ま逆とも思えるような見方をする人がいれば、
そういう人とは永遠にわかりあえないことになる。
ひとはとことん得手勝手な生きものであるけれど、それが悪いということでもない。
原稿を書く商売では、そうやって自分の見方・感じ方がいかにすぐれているかを
述べるのに熱情を傾け、読者を取りこもうと策を労する。
瞑想と三昧のつづきで、ヨーガの理論的バックボーンとなったサーンキヤ哲学について、
あれこれを書きたいと思っているのだが、これがなかなかに難しい。
サーンキヤを理解することは、自分のなかにスピリチュアルなことどもの正否を判断する
物差しをもつということであり、そのあとでなら、もう、ジャンクな情報に惑わされなくてすむ。


<瞑想と三昧・15> 
天然石ビーズのストックボックスを開けて念頭にあるビーズを探す。
色見本を開いたかのようなたくさんの色の天然石ビーズに目くらましされることがある。
薔薇の花の愛好家がみる薔薇と観光客がみるのは同じ花でも同じではない。
同様に通りすがりの客が見るビーズとぼくが見るのとでは同じであっても同じではない。
瞑想の禅定に近い、意識がある種の高みにのぼって見る木々と、
平素の状況で見る木々は同じ木々ではない。
そのように色について学ぶようになると、
天然石ビーズはより鮮やで深い色彩をともなって目に入ってくる。
色味にも倍音というものがあって、色どりの内側で幾重にも反響しているかのようだ。
そこでは色彩がパワーの表現であることがわかる。
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