大分類「10・絵のある石を絵画として楽しむ」■セプタリアン丸玉の写真 |
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上はセプタリアン(亀甲石)の丸玉。泥岩の隙間にカルサイトが入り込んでいる。
亀甲石の和名は塊状(ノジュールという)で算出するこの石の表面が
亀の甲羅模様に似ていることによる。
下は金宝玉丸玉、カルサイトのように見える。
岩石や鉱物には、そこに絵が描かれているかのように見えるものがある。
人間の側の「見立て」の作用によるのだが、
こうした「絵」はおおいに不思議がられ、精霊が描いたとされたりしてきた。
当社製品のおおまかな分類は、ひとり当社のみではなく
天然石製品全体のおおまかな分類でもあって、
天然石製品にはとてもたくさんの種類があることが分類してはじめてわかる。
その多様性に目が眩む思いもする。
そうして10番目の分類の「絵のある石と関連製品」は、
セプタリアン(亀甲石)丸玉など、ごく一部を除いて、店頭に展示していないし、
ショッピングページに掲載したこともない。
関連製品の大部分は倉庫に眠ったままで、ぼく自身も全体量を忘れてしまっている。
ぼくが死んでしまったら、それが何であるのか、どのような価値があるのか、
どうすれば商品価値が生じるのか、だれひとり知る者がいないミステリアスな製品である。
わかりやすいところではピクチャージャスパー、ランドスケープストーンなど、
石を板状にカットして研磨すると風景画のような模様が浮かび上がるものがある。
かつて西洋ではそれらの模様は「精霊が描いた絵」とされていて、
イタリア産の模様のある大理石、パエシナストーンなどは絵画の一種として流通していた。
こうした「絵のある石」は、石板または丸玉それ自体で面白みがあるし、
画家がいくらか筆を加えるとさらにおもしろい作品に仕上がる。
書を書くなら風格のある飾り石に変じる。
そうであるので、これらの石は新しい画材としても商品価値を持つのではないか、
最初はそんなような発想だった。
ショップで売るよりも画廊などを借りて展覧会を開くのがおもしろかろうと考えた。
中国では天然石画とか、太古石画とよばれたり、
模様が草花に似ているものは草花石とよぶこともあるこれらの石をたくさん仕入れた。
これを絵として売るからには額が必要であるし、
アンティーク風の額を中国かインドネシアで作る工夫もしなくてはと考えていた矢先に、
世の景気はリーマンショックで一気に下降して、
絵のある石の展覧会など開けるふうではなくなった。
景気の動向を睨んでいるうちに東北の大震災が起きて、
いよいよこれらの石を売る算段は遠のいてしまった。
だからうちの倉庫にはぼくしか知らない世にも不思議だったり、
おもしろおかしい石たちがたくさん眠ったままになっている。
かつてけっこう親しかったインド人の天然石のディーラーが真顔でぼくに言った。
「石ヤというのは食べていく以上にお金があまったら、
貯金したり投資したりするんじゃない、とにかく石を買って在庫を増やすんだ、
それが石ヤの力になる」と。
絵のある石は、5年経とうと10年経とうと、
たとえ100年経とうと腐る心配はないのだが、
目下のところは石ヤの力にもなってくれそうにない。
が、しかしである。日本翡翠が一段落して絵のある石に手がまわる余裕ができるとしたら、
これらの石たちは忽然とお宝に変じるかもしれない。
前回のゴーギャンの絵のタイトル。
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」は、
千年来変わらぬ精神世界のテーマでもあって、石たちと仲良くする、
やがてはひとりひとりがアセッションして、心の内なる神性に目覚めるというか、
ありとあらゆるものに仏性が宿っているのを見られるようになるなら
(草木国土悉有仏性という)、おのずとわかることがらでもある。
そこでは霊的進化が何を意味するかもわかる。
そのことを概念としてではなく、実際にわかりあえたらと思う。
(たとえば宮沢賢治はそれを見ていた。
けれど賢治ファンの多くは賢治の物語が好きなだけで、
賢治が見たものを見ようとする人は少ない。
スピリチュアルな世界について、
私たちは賢治ファンのようであってはならないと思っている。
北出幸男著『宮沢賢治と天然石』参照)
追記:今朝、ここまでを下書きして店に出かけた。
1年以上も前に石に絵を描くよう勧めた知人の絵描きさんが
偶然にも友人といっしょに来店して、
彼が絵を描いた石を届けてくれた。
さすがプロだけあって丁寧に描かれていた。
どこか古代の図案を思わせる美しい作品だった。
うえのブログ記事と届けられた石との奇妙な偶然の一致、
こうしたシンクロニシティが起きると、
「絵のある石」や「石に絵を描く」といった話は
見えない世界から祝福されていると思えてくる。

大分類「10・絵のある石を絵画として楽しむ」■セプタリアン丸玉の写真






