山の家へ石たちの写真を撮りにいった ■日本翡翠彫像・ヌナカワヒメの写真 | 11:16 |
★その1・山の家へ原石や製品の写真を撮りにいってきた。
1個で20キロとか30キロの水晶原石はウレタンシートやエアキャップに巻いて、
ハードボードを布貼りした箱におさめられている。
それらを箱からだして包みをほどくのが一仕事。なにせ向こうの国の人たちときたら、
なんでもかんでもぐるぐると粘着テープをミイラ巻きするのが習慣なんだから。
撮影に適していそうな場所を探して、ヨタヨタと原石を運ぶのも一仕事。
さらにもとあったように箱に詰め直すのも一仕事。
そんなのを3回も繰り返すと、
コップ3杯の水をたてつづきに呑んで横にならずにはいられないほど疲れてしまう。
面倒なことや大変なこと、努力しなくてはならないことは全部厭いたいと思っているのに
現実は全然そうじゃない。
それから渓流に入って、杉並区在住Gさんから借りてきた
日本翡翠製姫神の彫像<ヌナカワ姫>を撮影した。
日本では勾玉を作るだけで「匠(たくみ)」といわれる。
これだけの作品を作る腕があるなら作家の看板をあげられる。
でも中国にはこの程度の職人は山ほどいる。
聞いた話では日本で美大の彫刻科を卒業しても仕事はない。
けれど中国でなら就職口は引く手あまたなんだそうな。
ていねいに磨かれた<ヌナカワ姫>の彫像はのっぺりとした髪形や衣服のゆえに
ピントを見定めにくい。くわえてローアングルだとさらに確認しずらい。
しゃがんだ姿勢でお尻を水につけないよう緊張しながらモニターを見るのは楽じゃない。
足首を水につけて、あっちの岩やこっちの岩に彫像を置いたりしていると、
渓流の音やカエルの鳴き声に耳を洗われることもあって、気分は日常性を離れていく。
眺めるほどに<ヌナカワ姫>の笑顔はあでやかにあり、ついには破顔一笑したりする。
なんて可愛らしいと思ったことだった。
★その2・デイレクターチェアを庭に出して淹れたてのコーヒー片手に山を見る。
マラカイトの緑といっても一色ではないように、
山の斜面は濃いのやもっと濃いのやさらに濃いのなど、いろいろな緑が乱雑な模様を描いている。
山の上には空がある。空と地面の間に自分がいて、周囲の景色に自分が包まれていると感じる。
その感じ方を好ましく思っている。
宮沢賢治は空を見るのが好きな人だった。
あんなに熱心に雲を眺めた人はいないといえるほど雲を見た。
朝も昼も夜も雲を見た。暁(あかつき)の空と黄昏(たそがれ)の空がことのほか好きだった。
賢治にとって空はターコイスやアズライトやラピスラズリ、ときおりはアマゾナイトで、
雲はおおかたオパールで、アラゴナイトや大理石の場合もあった。
朝にはシトリンやトパーズの陽射がきらめき、
夕方には辺り一面がアンバー(琥珀)に包まれた。
アンバーには大昔の昆虫を閉じ込めているのがある。
そういうものは世界中で1、2個しかないんだろうけれど、トカゲを閉じ込めたアンバーもある。
アンバーが空一面に拡大されると、トカゲは恐竜になった。
そうやって賢治はダイノサウルスが群れなして渡っていく空を見た。
バリ島の人が描いた風景画を見ると、遠近感がないことに気付く。
この遠近感のなさは、意識が変性して向こう側へと行ってしまった特徴のひとつだ。
同じように呪術師の意識空間へと入った宮沢賢治の視覚では、
鉱物の色をした空や雲は比喩ではなく、実際にそのように見えていた。
彼は空を眺めるだけで向こう側へと行ってしまうことができた。
(額の奥をのぞき込むつもりで風景を見ると遠近感はすぐさま失われる。
そこでなら向こう側を受け入れられる。)