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「神居古潭ナス紺シンクロニシティ」の不思議■神居古潭原石の写真 14:07
神居古潭ナス紺
神居古潭絵葉書
写真上が願わずして願いがかなった神居古潭ナス紺の原石。448g、左右約180mm。
下はたぶん昭和のはじめごろの神居古潭。白黒写真に人工着色したものをカラー印刷してある。


古くからの石ヤの友人から思わぬいただきものをした。彼にお礼のメールを送った。
ここから「神居古潭ナス紺シンクロニシティ」とひとまず名付けた
3重連のシンクロニシティが始まった。
 
シンクロニシティ(奇妙な偶然の一致)は無意識世界のひろがりや意識の構造を垣間見るというか、
そういうものがあると感知する絶好の機会であると思っている。
東洋では現象世界は「縁」の織物のうえに形作られていると考えてきたが、
シンクロニシティは「縁」が動くことを感知する機会でもある。

「願望実現」はパワーストーンの効能のテーマでありつづけてきた。
たいがいの願望実現は、あとで振り返るなら、
深い意味が隠されているかにみえるシンクロニシティをきっかけに起きる。
あるとき誰かの紹介でひとりの人に出会う。その人とは初対面とは思えないほどにウマがあい、
彼または彼女が熱烈な恋の対象になったり、あるいはその人の口添えで就職先が見つかる、
それまで興味を抱いてきた世界がいっきょに深まっていくというように。

だから願望の実現は待っていれば願いがかなうなどというものではなく、
シンクロニシティを能動的に起こすことができるなら、
それによって自分の世界が転変していくということがらに属している。

(この意味で日本翡翠は超不思議な石だ。
現代合理主義とは異なる思考体系のもとで日本翡翠はシンクロニシティを招く)。
 
さてと、「神居古潭ナス紺シンクロニシティ」は以下のように始まった。

1、お礼のメールの返事に、神居古潭に触れて彼は書いてきた。
神居古潭はかつて水石 (すいせき)の貴公子ともてはやされた霊石。
北海道旭川市郊外の神居古潭という土地で採集される変成岩の一種。
漢字を読めば神々が居ます古い淵ということになり、
アイヌ語では神々の邑(むら)という意味になる。
古い時代には神居古潭はアイヌの人たちの聖地であり、
ここの石には神々のパワーが宿ると考えられていたことだろう。
 
この神居古潭に幻の銘石ともいえるナス紺色のものがある。
保育社のカラーブックス・シリーズの『水石』という本に写真が掲載されていて、
その色合いたるやラピスラズリを彷彿とさせる。そんなふうに彼は言った。
 
ぼくはといえば、黒に近い濃緑色の神居古潭に魅了されていて、ナス紺などというのは初耳だった。
『水石』という本はきっと山の家にあるから後で見てみると返事した。

2、同じ日の夜、北海道の愛石家で神居古潭原石をわけてもらうことになっている人
からメールが届いた。彼の友人でナス紺を持っている人がいて、
以前にそれをもらう約束になっていた。さきほど連絡したら今も保管しているということなので、
それを取りに行ってぼくにくれるという。凄いシンクロニシティだとぼくは喜んだ。

3、翌々日、店の近くのレトラン前でフリーマーケットが開かれていた。
石っぽいものが目についたのでちょっと覗いた。水石風の可愛い蛇紋岩が100円だった。
店主と話をしていると、なんと彼は保育社のカラーブックス・シリーズの『水石』
という本を持ち出してきて見せてくれた。
ここで始めてぼくはラピスラズリに似た色合いのナス紺の神居古潭の写真を見た。
この本は20ー30年ほど前に出版された本なのでいまでは珍奇の部類に入る。

4、翌日、ぼくは山の家に行き、蔵書を探して記憶通りの場所に『水石』を見つけた。
山の家に一泊してアパートに戻ると、たくさんの神居古潭原石が届いていて、
いっしょにナス紺色の原石が入っていた。
フォークスアイ(ブルー・タイガーアイ)やピーターサイトと同じ、
クロシドライトが混入しての色合いなんだろうと勝手に解釈しているが、
幻の神居古潭を手にして眺める気持ちには格別なものがあった。
 
シンクロニシティは個人的な体験の味覚に意義があって、
他者に話してもおもしろくないものであることが多い。
こんなふうに願ってもみなかった願いが勝手にかなっていくなら、
楽をしたままでお金持ちになれてもよさそうなものだと思うのだが、
この願いだけは40年かけても気楽にかなう気配がない。

もっともお金持ちになれて、年中財産の心配をしつづけるのと、
尻に火がつきそうな一歩手前で、なんとか生活できていけているのと、
どちらがより苦労が少ないのかと考えると、
お金持ちというのも、あまり楽ではないように思えもする。
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獣型勾玉から子供が生まれた?■日本翡翠獣形勾玉の写真 19:52
日本翡翠獣形勾玉
もう少ししたら、とはいっても半年くらい先のことになるだろうが、
うちの獣形(けものがた)勾玉に子供が生まれるかもしれない。
もしそうなら、これはトテモ凄イコトダ、と驚き喜んでいる。
獣形勾玉は弥生・古墳時代にパワーアニマルがいた。
人々は獣型の精霊を知っていた、その証明となるような形をしていて、
おもに西日本の遺跡から出土する。


「獣形勾玉には本当に励まされる!」と書いた翌日、つまり昨日、小さな展示会に行った。
会場をブラブラと二回りほどして、翡翠の切れ端を積んでいた業者のテーブルの片隅に
小振りの獣型勾玉を見つけた。美的感覚にすぐれていて、バランスの整った獣型だった。
 
購入してきて机の上に置いた。まるでうちの獣型が子供を産んだようでおもしろおかしい。
ああ、一昨日パワーアニマルについて書いたシンクロニシティだったんだと思った。

(シンクロニシティ・奇妙な偶然の一致は自分の暮らしぶりに注意深く接することで、
比較的頻繁に起きていることに気付けるようになる。
シンクロニシティによって潜在的な願いが実現されていくように見える。
お金が入ってくるシンクロニシティが連鎖しにくいのが悩みではあるが。

……ひょっとしたらお金という概念は「心」という古くからの存在にとっては
比較的新しい出来事で、自我がお金を必要としていても、
心は構造上お金が何であるかを理解していないかもしれない)。
 
古墳時代に入ってからだと思う。列島では勾玉も子供を産むという信仰がひろまって 
「子持ち勾玉」なるものが作られるようになった。
 
記憶では、翡翠製品はなくて、滑石など軟らかい石で作られる。
翡翠、水晶などの従来型勾玉には威信財としての価値があった。
それに対して子持ち勾玉はもっぱら宗教儀式に用いられ、
豊作を祈願して神前に奉納されたような雰囲気がある。 

詳しいことは知らないしわかっていないようだが、
中央政府が関与しない民間信仰の呪物であったような気もする。
 
中国ではパワーの宿る石は玉(ぎょく・ゆう)といわれ、
日本では同じ玉という字を書いて「たま」と読んできた。
玉は魂に通じる。それで玉が玉を産むという信仰が生じたのだろう。
玉は魂を生み育て、魂を鎮め、魂を振る。

「ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここのとう」と数えて、
「ふるえふるえ、ゆらゆらとふるえ」と玉を振りながらとなえるなら、
古代の祭祀空間がいまここに広がるような気分になれる。
 
あなたもぼくもかつてはそういうところにいて、
本当の祭りが意味する神々や祖霊との交歓に敬虔でありつつもめくるめく思いをしていた。
そこではパワーの世界が言葉だけのものではない、
あからさまなまでにくっきりと実在することを体験できた。
 
念のためにいえば、威信財は権力者やお金持ちが財産をひけらかすためだけにあったのではなく、
自分がパワーの加護を他者よりも強く受けていることを表明するためにあった。
考古学者たちは病的なほどに神霊や祖霊、あるいは神秘的パワーという概念に近付くことを毛嫌いしている。
けれど古代においてはパワーこそ存在の第一義であり、あらゆるものがパワーと結び付けられていた。

古代人の感性は現代人と同じではなかった。
こうした古代人の感性を理解しないかぎり、遺跡からの出土品の本当の意味は見えてこない。
目下注目の宮沢賢治が歴史や科学は嘘っぽいというのも、ここらあたりのことをさしているのだろう。
折口信男のような学者の再登場を待ちのぞんでいる。
 
30x20x12ミリの小さな獣型勾玉は動物型の精霊・パワーアニマル
(当社風にはブリンギング・アニマル)からの贈り物のように見える。
 
展示会に出品されているいつもながらの鉱物標本やルース、ビーズを眺めながら、
自分の意図はもうこういうところにはない。
もうちょっと違う何かが始まっていると感じていた。
その何かを始めるためのパワーをこのビルマ翡翠の獣型勾玉は運んできてくれたようでもある。
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再生の日の雨とのシンクロニシティ■日本翡翠特大勾玉(糸魚川翡翠勾玉)の写真 23:18
日本翡翠
↑新着したばかりの日本翡翠特大勾玉。長さが10センチある。これはもうご神体ものと、ひとりで悦に入っている。ショップでの展示やHP掲載よりも一足早くブログでお披露目。

山の家の庭に6畳ほどのプレハブ倉庫を建てることにした。
 
朝の7時半、建設会社の営業マンに連れられて職人さんがひとり、2トントラックに一切を積んでやってきた。
50歳は過ぎているようなのに彼の身体は軽い。てきぱきと動きまわってブロックの土台を組み、
大型のプラモデルを組み立てるように壁を立てドアと窓を付け、屋根をかぶせて夕方6時に作業が完了した。
 
自分では職人になろうと考えたことはないし、同じ作業の繰り返しが苦手ではなれようもなかったが、
なんであれ職人の手慣れた技を立派と思っている。
 
発端は、「絵のある石」「大地が描いた石の絵」の展示会を画廊でやろうと思ったことにある。
 
たとえば砂岩質やジャスパーのランドスケープストーンというものがある。
イタリアにはパエシナストーンという特殊な大理石が産出する。
メノウの原石はスライスすると美しい年輪模様を見せるものがある。
亀甲石(セプタリアン)という泥岩質の石は半分に切断すると抽象画のような模様を見せる。
 
どれもが大地が石に描いた絵で人間が「見立てる」ことで実体化してくる。
シュールレアリズムの批判者として知られるロジェ・カイヨワは、
これら「絵のある石」を集めて 『石が書く』という本を書いた。
 
そういう展示会を開くためにたくさんの石を仕入れて山の家に運びこんだ。
整理しなくてはと思っているうちに世界的な経済恐慌の波が押し寄せて、
無理に急いで展示会を開いても赤字になるだけ、ということになってしまった。
 
居間に積んでおいても立ち往生するばかりなので、
やむをえずさらなる出費を強いてプレハブ倉庫となった次第。
 
自分が大変なときには、たいがい他のたくさんの人たちも大変なわけで、
こんなに大変な思いをしているのは自分だけじゃない、と思えば気分も軽くなる。

(たくさんのことがモノは考えようで暗くなったり明るくなったりするし、豆腐も切りようで丸くなる。
不要な思いは水晶に託して流し去るのがグッド、というのが石ヤの立場だ)。

こうなったからには、「見立てに遊ぶ」とか「見立ての神秘」というような本を先に書いて、
出版記念の展示会をやることにしようと思っている。
 
プレハブ倉庫が建った翌朝、雨戸を開けたら夜半に雨が降ってどこもかしこも濡れていた。
2月半ばだというのにセーターを脱いで外で作業しても汗ばむほどの一日となった。 

住居や事務所を引っ越したり、店を開いたりするごとに雨が降る。
それも大雨ではなく、ちょっと大地を濡らす程度であったり、
パラパラとした通り雨程度の雨が降る。
自分と雨とのシンクロニシティを思い出して嬉しくなった。
 
山の家への引っ越しの前夜にも雨が降った。
鷺宮と西荻窪のショップの開店の日にも雨が降った。
いま暮らしているコンクリートのアパートに移った日にも雨が降った。
 
こうして降る雨は龍神の恵み、弁財天やミズハノ女神に代表される女神の祝福と自分勝手に思っている。
だからといって商売が大成功して大金持ちになるわけではないが、
人生の再生の日となるようなシチュエーションで雨が降ると、
自分の行為は天地に合っているのだという気分になれる。
見えない世界とつながっているように感じられて心強くなれる。
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読み始めたSFとのシンクロニシティ  ■日本翡翠(糸魚川翡翠)と夢の実現 21:24
翡翠製品

翡翠製品

↑ 当社の日本翡翠コレクションからお地蔵さん&宝珠と、ガマ財神。
"[ 製品紹介ページを見る ]

共有される意識ということを折に触れて考えている最中に、
たまたま読み始めたSFに「現実を共有する異星人」が登場するのには、
なにがしかのシンクロニシティがあるかもしれない。
 
最近のSFの流行は、未来の人類が高度な文明を築くのではなく、
異星人の遺産を活用して科学技術の飛躍的発展をとげ、銀河系宇宙の彼方へと飛躍していくところにある。

『プロバビリティ・ムーン』ナンシー・クレス、金子司訳、ハヤカワSF文庫、2008)
もそういう物語のひとつで、人類は時空のトンネルを抜けて
太陽系宇宙の外側へと無限に飛躍できる時代を迎えている。
 
主人公たちが到着した辺境の惑星は住民が情報・感情・想念による「現実」を共有する社会で、
他者と異なる価値観を抱いたり、非常識な行為をするなど、
現実を共有できない者は非現実者として差別され、村八分を余儀なくされる。
現実者が非現実的な想念に触れると猛烈な頭痛を起こすという設定が興味深い。
 
意識は心の奥まった層で共有されているというよりも、もともと意識は巨大な織りものであり、
個人の意識はその一部なのだと発想を転換すれば、
シンクロニシティはより神秘的で大きな意味を帯びるようになる。
 
シンクロニシティはそうと気付くことではじめて認知できるのであって、見逃してしまうことが多い。
ときには何日も経ってから、あれはじつに奇妙な偶然の一致だったんだと振り返ることもある。
 
シンクロニシティを体験して、それに思いをめぐらすときの、身体の芯のほうがむずがゆくなるような感触には、
人類が知性化して以来夢想したり考察してきた「意識の秘密」に触れられそうな味わいがある。
 
意識の奥まった層は地下深くを流れる河のようであり、「玄」としていて、
日常的な自我意識では探知できない。
その昏い領域に水深を計る重りを投げ入れるような、あるいは地を這う蔓をたどって自然薯に行き着くような、
感触がシンクロニシティにある。
 
それゆえにのことだろう。虫の知らせ・第六感の的中・正夢(まさゆめ)・知人との予期せぬ出会い、
などのシンクロニシティは古代からなみなみならぬ興味の対象となり、世界各地で「夢占い」が発達したし、
古代中国では森羅万象に「八卦」を読む占いの体系も開発された。

「日本翡翠はシンクロニシティを誘発する」。奇妙な偶然の一致・シンクロニシティが
起きることで、それをきっかけに夢は実現しやすくなる。
そうであるので日本翡翠は夢の実現を導く守護石ということもできる。
そんなふうに考えはじめて、シンクロニシティをめぐる旅がつづいている。
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とほうもなく巨大なアミーバのような意識■シンクロニシティ■ヒマラヤ水晶の写真 23:02
水晶ポイント
↑ 『2009新春セールカタログ』から、「ヒマラヤ水晶特大ポイント」
全品2割引セールは2月8日まで。[ セールカタログを見る ]

(1月23日の「みんなの意識は根底でひとつのものになっている」のつづき)。

花を見れば誰もが美しいと思う。神社へ行って神に向かうとみんながなにがしら敬虔なものを感じる。
異国へ行って言葉が通じない相手であっても、身振りや手振り、
ときには以心伝心ということが起きて互いにわかりあえる。
 
ということは意識の奥まった層では、人間は他者と共通する意識の仕組みがあるということになる。
 
それぞれの固体のうちに同じ要素があるということは視点を変えるなら、
個々の存在は全体の部分であるといえもする。
 
ぼくらは意識は個人の身体の内側に限定されているという考え方に慣れきっている。
それ以外の意識のありようなどあるはずがないと信じている。
 
だから、たとえば空気でできたアミーバのような、
とほうもなく大きくて地球を覆ってしまうような意識体というものがあって、
あちこちに突出している小さな突起のひとつがあなたやぼくであり、遠くのだれかという自我である、
というふうに考えることは難しいかもしれない。
 
意識は個々に独立しているわけではなく、地球を覆うほどに大きな一枚板のようなものと想像する。
個人という氷の粒が集って氷河という共通する意識があるのではなく、
大きな意識という湖があってそよふく風にたつさざ波のひとつひとつが個人の意識ということになるだろう。
 
意識という地球を覆うほどに巨大な布がある。縦糸と横糸が織り成す網目のひとつがぼくであり、
あなたであり、遠くの誰かであって、体育館の床一面にパチンコ玉をばらまいたようには
意識は存在していないと考えることもできる。
 
空気のようなものでできた巨大なアミーバのような意識という存在には、
気が遠くなってしまいそうな魅力がある。
 
こうやって考えると、昨日までとは違う存在の様態がみえてきはしなだろうか。
ぼくが死んでも、ぼくとそっくりな突起がどこかでできるだろうし、あなたが死んでも、
どこかであなたとそっくりな存在の突起が芽吹くことになるだろう。
 
たくさんの時代にあなたとそっくりのあなたはいたし、いまこのとき、
世界の各地であなたとそっくりの何人ものあなたが、あなたと同じように生活している。
 
巨大なアミーバのような意識は、さらに奥の層では人類共有のものであることを超えて、
哺乳類共有の意識となり、さらには多細胞生物共有の意識、分子・原子が共有する意識となる。
そうやって地球全部がじつはひとつの意識体であるかもしれないことが見えてくる。 

自我が現代人のように発達していなかった古代の人たちは、
こういうふうに言葉で考えることはなかったかもしれないが、こんなふうに意識を感じていたようである。

(ぼくはものすごく大事なことを言おうとしているのだが、わかってくれるだろうか?)
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みんなの意識は根底でひとつのものとなっている■勾玉・大珠の写真■シンクロニシティ 23:32




私たちは自分という存在は周囲から独立していると教えられて育つ。
仲のいい友だちのAと自分は同じではない。自分と母親は同じではない。
やがては自分が周囲から切り離されていることを認知する。
まわりの人たちもそのようにしているのだから、そう信じて疑わなくなり、
自分がひとりであることは決定的な真実となる。
 
どんなに愛し合っていてもふたりが同じ夢をみることはないし、
どのように淫らな妄想を抱こうが他者に漏れることはない。
どのように仲のいい友人がいようと、寂しい時はとことん寂しい。
 
しかし自分の思いや感性は自分ひとりのものであると信じているから、
そのように見えるだけで本当はそうではないかもしれない。
 
うちのショップにはプラスチック製で4−5センチの升目に区切った容器に15−20ミリの各種丸玉が入れてある。
あのディスプレー容器の底をとって、升目をもっともっと小さくして、
膨大な数の枡目に増やしたものを水に浮かべると想像する。
ひつの枡に入る水があなたやぼくである。枡の中だけ見れば、
あなたやぼくは仕切りにさえぎられて周囲から孤立している。
しかし底のほうから見れば、水は水でありみんなとつながって区分けできないし、
区切ることもできない。
 
意識というものはそれに似て、ひょっとしたら全体でひとつであり、
「私」という自我は小さな升目のなかに落としたインクの一滴のようなものである、と思えなくもない。
 
そういうふうに思うと、西欧を中心に発達して、
いまでは世界の常識と思われている世界観とは異なる世界観のありようと、
それに基づく文化のありようというものが見えてくる。
 
なんだか目がくらんでしまいそうになるが、
石たちを見るということはどうもそういうことであるらしい。
 
写真は『2009新春カタログ』から60ミリの大勾玉と
100ミリのイエロージェード大珠。黄色は明るい気持ちに心を染める色。
みんながしおれているときに、みんなそうなんだから
自分もヘコんでいてもしかたがないと思わずに、
こんなときこそ頑張ろうと思うなら、頑張って得られる効果は2倍になる。

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