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良寛関連の本を読んでいる ■日本翡翠大型大珠の写真 23:43
日本翡翠大型大珠
写真は新着の日本翡翠大型大珠。圧砕翡翠の一種のようで、
濃緑色と白がまだらもようになっている。
次回には新入荷の大型大珠、その他製品について詳しく紹介したいと思っている。
今日はなんだか、良寛さんについての話を書くとはなしに書いてしまった。
 
良寛関連の本を読んでいる。最初は水上勉の『良寛』だった。
自分の趣味の読書はおおむね翻訳もののSFかミステリーなので、
日本人の作家の本はあまり読んだことがない。
端的に要点をつく作家の力量に敬服した。
でもここには、自分にしっくりくる良寛はいなかった。
 
2冊目は禅ヒッピーという存在や、
神秘思想をまったく理解できない人が書いた伝記だった。
良寛の生涯について知るには役立ったが、
この著者は、称賛に値する立派な僧侶は、一生懸命修行して有名寺院の座首になるか、
大きな宗派の幹部になることだと思いこんでいるようで、
こういう凡俗とは知り合いになりたくないと思った。
たぶん誰のまわりにも内実からっぽのくせにスタンドプレーだけが得意な奴がいるだろう。
良寛は大学の教授やエリート・サラリーマンになるよりも、
乞食坊主・雲水であることを選んだ禅ヒッピーだった。
 
あるとき良寛の名声を聞いた殿様が訪ねてきて、わしが面倒みようと言った。
良寛は乞食坊主のままで足りているので結構です、と断った。
そのときの俳句が、
焚くほどに 風がもて来る 落ち葉かな
(*自分が必要とする程度の焚きつけは風が運んできてくれる。
そうやってわたしはただ足りている)

日光浴の邪魔だからどいてくれないかと、
皇帝の誘いを断ったヒッピー哲学者ディオゲネスみたいだが、
こういうスタンスを理解できる人とできない人がいる。
 
良寛関連本3冊目は、良寛作の和歌と漢詩の解説書だった。
丁寧でわかりやすかった。
読んでいるうちに良寛が胸の内で形を整えていった。
彼の人生では悟りという神秘的体験はおとずれなかったようだ。
それでも良寛は、修行と諦念、欲望を遠離する(抑圧するのと同じではない)ことで、
精神の明澄さに安住する道を得た。
 
ぼくはこれまで神秘主義というものにこだわりつづけてきた。
タントリズムもラージャ・ヨーガもチベット仏教(金剛乗仏教)も、
神秘的体験がなければ価値がないと思っていた。
良寛はそうではなかったようだ。
そうか、こういう方法もあるのだと得心している。 

良寛は70歳のとき、40歳も年の離れた美しい尼僧と出会う。
彼女の名前は貞心尼。
離婚して尼僧となり、庵を構えていたが、良寛に和歌と仏道の指導を願った。
 
師弟関係のなかに男と女の情(欲)が昇華されていった。
良寛は74歳で入寂するが、最後を看取ったのも彼女だった。
 
初対面を経て、貞心尼から届いた歌に良寛が応える。
良寛には嬉しさのほかにてれもある。
 
君にかく あい見ることの嬉しさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思う(貞心尼)
(*立派なお師匠にお目にかかれて嬉しくて、
覚めることのない夢のなかにいるようです。) 

夢の世にかつまどろみて 夢をまた語るも夢も それがまにまに(良寛)
(*毎日は起きてみる夢。そんななかでまどろんで見た夢を語るもまた夢、
そういうことでいいのではありませんか。)

良寛にとって貞心尼は晩年になって出会うことができた
弁財天か吉祥天だったことだろう。
彼女のことをよく知っていて、
もう少しで彼女の顔をくっきりと思い出せそうな気がする。
資料に美人とあるから美人だったのだろう。
貞心尼は精神的危機状態、スピリチュアル・エマジェンシーのうちにあって、
指導してくれる人を必要としていた。
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『呪術師の飛翔・未知への旅立ち』という本を読んだ■マウシッシ勾玉の写真 13:13
マウシッシ勾玉
マウシッシのメタリックな緑色は身体意識に直接訴えかけてくるようなところがある。
マウシッシを眺めていると意識は変性して生命の沃野を旅しはじめる。

《ザ・ストーンズ・バザール》HPの「今月の新製品」には、
マウシッシの38ミリ本勾玉、30ミリの吉祥勾玉、
シルバー丸環をつけたラフな長角ペンダント、などを掲載しました。
 
個人的にはマウシッシの主成分のコスモクロアとヒスイ輝石の中間系、
分子構成が  (ナトリウム)+(アルミニウム・クロム)+ケイ酸、
からなるクロム・ジェダイト(クロムを含んだ翡翠原石)に興味津々で、
ショップにストックしてある原石のうちどれとどれが該当するのだろうと、ドキドキ気分でいます。
 
緑濃いマウシッシの勾玉を見るにはここをクリック

『呪術師の飛翔・未知への旅立ち』(タイシャ・エイブラー、こまいひさよ訳、
コスモス・ライブラリー、2011)という本を読んだ。
表紙には序文/カルロス・カスタネダとあって、
著者がカスタネダひきいる呪術師グループの一員だったことが知れる。
 
後書きにはカスタネダの著作リストがあって、
それを見るとドン・ファン/カスタネダ・シリーズの最初の本
『呪術師と私 ドン・ファンの教え』の出版は1974年となっている。
いまから37年も前の出来事だ。
記憶ではこれは新装版で『ドン・ファンの教え』はそれより3、4年前に出版された
はずなので40年前の出来事となる。

(遠くのあなたが30歳であるとして、輪廻転生があるとするなら、
なんと驚くことに、その時代、あなたはまだ前世の身体のうちにあった。
ぼくらはなんども死んでいるなんて、とても信じられない)
 
そんなにも古い話であるし、スピリチュアルなサブ・カルチャーが旱魃して、
ダイアモンドをガラスに置き換えたような精神世界が語られる今という時代では、
ドン・ファン/カスタネダと聞いても、昔の出来事と思ってしまう人や、
そもそも彼らのことを知らない人が多いだろう。
 
ドン・ファン/カスタネダのシリーズは、
メキシコ・インディアンの呪術師ドン・ファンに弟子入りした
アメリカ人の見習い文化人類学者カルロス・カスタネダの
修行の日々を綴った文集みたいなもので、
当初は、ペヨーテやダツラ、毒キノコなど、向精神性植物の摂取による幻覚体験が、
幻惑やら耽溺を超越して、精神世界&変性意識の探求へと拡大していく
シャーマニズムとドラッグスの関係性が話題になった。
 
シリーズが深まるにつれて、実はドラッグスは呪術の修行にさほど重要ではない
ことが明らかにされる。禅や密教の「空・くう」の体験、
ウパニシャッドやタントリズムの「究極の実在・梵我一如」体験にも比肩する
「魂の完璧な自由」の達成がドン・ファンたちの究極の目標であり、
彼らの修行体系はすべてがそのためにプログラムされていると説かれていく。
 
動物の爪や骨やら怪しげな呪具を振りかざし、不気味な呪文を唱えて、
雨乞いしたり、病魔を払ったり、依頼人の恋の成就に力を貸したり、
他人が不幸になるよう呪ったりする一般的な呪術はお門違いであった。
 
彼らの修行体系は古代メキシコのトルテカの呪術を再構成したものといいながら、
ウイチロポチトリやケツアルコアトルといった中南米の神々は一切登場しない
ところにも不可解な特徴がある。
 
若かった日々のぼくにとってドン・ファン/カスタネダ・シリーズは
『般若心経』や 『法華経』や『ヨーガスートラ』、もちろん『聖書』よりも
切実で意味のある人生の導きの書だった。
 
このシリーズがあったからこそ、「道」に迷わず、「道」を踏みはずすことなく
(こちらから見れば社会的価値観から外れっぱなしということなのだが)、
やってこれたと思っている。
 
誰にでも「死」の時がくる。
年齢の差はせいぜいのところ数十年、近いか遠いかの差でしかない。
事故死、病死など「死」には年齢を無視する側面もある。

「死」がリアルになると、たくさんの人たちはあきらめのうちに死に呑まれていく。
恐怖におびえて死んでいく人も多い。
 
けれど呪術師(求道者)は違う。
自分を社会の外側に置くことで「死」を嫌悪する態度から免れる。
ドン・ファン的な呪術師(求道者)は死を契機に魂の飛翔を目指す。
 
科学的・動物学的にみれば「死」は、人間とてアリやトリと同じ
無への回帰であるかもしれない。
意識は脳細胞の集積回路が描くホログラム、ただそれだけのことであるかもしれない。
けれど絶望や恐怖のうちに迎える死と、死を魂の飛翔へと転換する考え方には、
それこそアリとゾウほどの違いがある。
 
そしてこのことだけが、もし異星人がいるとして、
彼らに誇れる唯一の人類の叡智なのだと思う。

科学が発達して、人類はビルを建て道路をコンクリートやアスファルトで覆い、
地球の反対側へと飛行機を飛ばすことができるようになった。
物質を原子・分子単位で見られるようになった。
けれど幸・不幸の概念は5千年前のままだし、
死ねばすべてを失うという現実を直視しないよう、
死を病院に隔離して暮している。
 
そういうことを思い浮かべると、
「完璧な自由の獲得」に比べられるような知識や宝はどこにもないようにみえる。

『呪術師の飛翔・未知への旅立ち』を話題にしながら、
この本の内容について一言も触れていない。
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春なんだから黄色い雨もないのだが■黒水晶写真 23:07
黒水晶クラスター

山東省産黒水晶。黒水晶はさほど見栄えのする石ではないが、
深い味わいがある。
あの石にはこういう効力といったパワーストーンのカタログ風表記は
もういいや、と思っているようなら、黒水晶と向き合うとパワーの使い道
のようなものが見えてくる。



スペイン人の作家フリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』(木村榮一訳、ソニーマガジンズ、2005)
という本を読み返している。本の扉に読んだ日付けを記入する習慣があって、
前回読んだのが2005年12月7日であることがわかる。
いつか読み返そうと机の横に積んだまま5年経っている。
本には2005年10月30日付け朝日新聞の書評の切り抜きが挟んである。
してみると書評を読んで本書を購入したらしい。
 
哀しくも美しいといおうか、美しくも切ない物語だ。
スペインのピレーネ山脈のどこかにアイニェーリェ村という廃村がある。
その村には移住することを拒んだ老人がたったひとり、名前のない雌犬といっしょに暮らしている。
 
老人には死期が迫っている。妻は数年前に自殺し、勘当した息子は異国にいて、彼に身寄りはいない。

物語はすべて老人のモノローグでできている。
秋になってもみじしたポプラの葉が黄色い雨となって降ると村にはすぐさま雪の冬が訪れる。
雪は廃屋を壊し、村をさらなる荒廃へと追いやる。馬小屋がつぶされ納屋が倒壊する。
それでも老人は山裾の村人との交際を絶って、暦が意味をもたなくなった日々を過ごす。
夜には妻や母、幼くして他界した娘の亡霊が薪ストーブのベンチに座る。
 
世間一般の目からは老人は偏屈で意固地で人間嫌い。
実物にお目にかかるとしたら、とても近所付き合いしたい人には思えない。
 
けれどページをくっていると、老人の世界こそがリアルで、
収入の多少やら人付き合いに一喜一憂している自分が虚構にいるような気分になってくる。
 
ラテン文化圏では、ラテン・アメリカでもおおむね同じことだが、
生と死の境界が明白ではなく、死は生の領域を浸食して、
断層を招き人生を褶曲させる。
浸食面やら断層面やらに注ぐ彼らのまなざしは熱い。
 
ラテン文学好みは藍染めの皿よりも、
スペインの派手な色遣いの皿のほうがしっくりするというのと関係があるのだろう。
 
そうやって水晶などの鉱物を思うと、石たちは本質的に向こう側に属していることがわかる。
石に連れられて静かさの淵に降りていく。
清澄さのなかに死の沈黙がある。
その向こうに忽然と生命の過剰さが脈打つ領域があって驚く。
生と死に深みを発見、ないし想像&創造したのは人類の知性なのだ
とわかっていてもやはり生と死と性は深い。
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『ぼくは考える木』について考える■日本翡翠(糸魚川翡翠)新製品の写真 15:15
日本翡翠

日本翡翠
↑ 前回につづいて日本翡翠新製品のリトルスター。
星に願いが届くように財布やポケットに入れておくと、
気づくごとに超可愛い石と対面できる。
下は新旧の獣形勾玉。何度も登場していささか恐縮だが、
親が子供の写真を見せたがる心境に似ていなくもない。
ほらッ すごく可愛いでしょ!  ねェ、可愛いって言って!  
そんな感じで可愛くてたまらない。


『ぼくは考える木』(ポーシャ・アイバーセン、小川敏子訳、早川書房、2009)という本を読んでいる。
サブタイトルには「自閉症の少年詩人と探る脳のふしぎな世界」とある。
 
早川書房の翻訳もののハードカバーは気に止めていたいジャンルのひとつ。
原文も美しく訳者も適切なのだろう、最初に開いたページから文章の美しさに引き込まれた。
 
語られている内容を理解するにつれて、驚くことがあまりに多く、
驚きは大きくて、眠る前に読むと頭が冴えてしまって寝付きが悪くなる。
 
作者はアメリカ人女性の脚本作家。離婚して息子を連れてハリウッドにやってきた。
映画のプロデューサーだった男性と再婚して誕生した男子が重度の自閉症だった。
 
夫婦は、メディア関係の仕事という能力と環境あってのことだが、
自閉症の研究が解決策を見出だすところからほど遠いところにあるのを知って、
自閉症を研究する学者に資金を提供する財団を設立する。
 
作者は財団の仕事をとおして、インドに詩集を出版した自閉症の少年がいることを知る。 

自閉症は知能の発育が遅れていて、言語障害があるのが常と考えられている。
視覚が天才並みに発達した人がいることは知られているが、
言語表現に常人以上の能力を示す人はきわめて少ない。
 
この少年こそ、自閉症者の世界を理解する糸口ではないか、
自分の息子の能力向上のヒントになるのではと、
作者はインドの自閉症少年母子をアメリカに招く。
 
インドの自閉症の少年ティトは言葉をうまく話せない。
彼が紙に書いたり、パソコンのディスプレーにつづる、
思考過程の説明が、とくに興味深い。
 
自閉症やアスペルガー症候群という状態は、
家族や親戚のひとりがそうでもないかぎり、
ほとんど話題にのぼらない。
 
電車のなかでは、それぞれの人が、
自己破産や失業の危機、痴呆症やガンを患う家族、自分の腰痛や慢性病・不定愁訴、
あるいは夫婦関係の破綻やもつれた恋愛問題といった悩みを抱えながらも、
平穏無事な顔をして乗り合わせている。
自分に関係のないことにまで首を突っこむ余裕はない。
 
そんなわけで自閉症やアスペルガー症候群についての世間の認知はないに等しく、
もしそういう子供が駅の雑踏でヒステリックにわめいていたら、誰もが眉をひそめる。
ホテルのビュッフェでそういう子供が親の監視の隙をついで料理のテーブルに突進して、
ケーキやスパゲッティの類いを鷲掴みに食べるなどという場面に遭遇するなら、
誰もが親の躾が悪いと感じる。
 
自閉症の子供には自分がなにをしているかの認識がなく、
万が一、世間的に悪いことをしていると気付いていても自分で自分を制御しようがない、
ということを知っている人は少ないし、
たとえ知っていても、寛容になれる人はもっと少ない。

「鳥」と一言で分類しても、鳥にはたくさんの種類があるように、
自閉症やアスペルガー症候群には、
ひとりひとりが違うといってもいいほどの異なる状態・状況があるという。
 
ぼくはたまたま、意識の仕組みや進化の様相に興味を抱くようになって、
どうにもそこから離れられない。
自閉症やアスペルガー症候群への関心もそれゆえのことで、
じかにこれらの人と向き合う人たちほど深刻ではない。
 
けれど、とても遠くから、
人類は決して単一のほぼ同じ機能と能力を有する動物ではなく、
ときに規格から外れた人たちもいるということを、
社会が受容できるようになればいいと願ってはいる。
 
そうすれば研究者の態度も変わるだろう。
いまある社会が唯一絶対とする感じ方は、必ずしも絶対的に正しいわけではない。
 
この問題は当然のことながら、
それぞれの人の癒し・ヒーリングのテーマにもつながっていく。
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『無門関』とダルマの髭と禅寺での体験■赤いヒキュウの写真 12:57
ヒキュウ
ヒキュウ
↑ めもあやな真紅のヒキュウ。レッドアゲート製品。
ちょっと眺めていると、あまりにふんばっているので、
腹のおくのほうがむずがゆくなり、ついつい笑えてしまう。


このところお気に入りの『無門関』は禅の語録のひとつ。禅が栄えた中国宋の時代に編まれた。
著者は無門慧海(むもんえかい・1183−1217)で浙江省良渚の生まれ。
超古代中国玉(ぎょく)文明のメッカであったあの良渚文明の土地だ。
そういえば杭州で訪ねた寺は無門ゆかりの寺だったような記憶もある。
 
彼は古今の禅者たちの禅問答から48を選んで一書とした。
それぞれの章は始めにトピックスがあり、無門の短い解説がつづき、
頌(じゅ)とよばれる無門作の漢詩が掲げてある。
 
日本での禅にはまったくうといが、
『無門関』は禅僧が学ぶもっとも有名な公案集であるという。
 
公案は宿題みたいなもので、師匠が弟子の仕上がり具合を試すのに用いると聞いている。
たとえば、犬に仏性があるのかないのか考えろ、という次第だ。
仏典などの知識をふまえて論理的に答えても正解にならない。
左脳的ではなく右脳的というか、
禅的な三昧(トリップ)体験を踏まえて、以心伝心するような答え方をしないと、
蹴飛ばされたりどやしつけられたりする。
師匠がこいつは「わかっているではないか」と同意するなら、「悟り」を認可される。
 
とても若かったころ、これから精神世界の原稿を書いていくのなら、
一度くらいは禅も習ったほうがいいと、
5−6泊禅寺に止まりこんで座禅三昧の日々を送る大接心というのに参加した。
 
帰路には気がすっかりと丹田に充満して、
「気」のバリヤーが腹の前30センチほどのところにはられていた。
新宿の駅構内を歩くときも、群れなして向かってくる人たちが、
黙っていてもいっせいに道を開けてくれるほどだった。
 
それでもいっしょに参禅した人たちときたら、今日は結跏趺座が20分できたとか、
まるでヨガ教室のアサナ(体位)狂いのような話ばかりだったので、
以後一度も禅寺に近寄ったことはない。
 
そんなふうでも『無門関』には好感が持てて、かれこれ20年くらい、
岩波文庫の薄っぺらなやつがいつも机の近くに置いてある。
 
座右の書ということになるが、その実、一度も全部を読んだことがない。

あるとき考え事をしていたら、
ふいに無門と趙州(じょうしゅう)の霊が自分の背後に立って苦笑いしているのを感じた。
以来彼らを遠いご先祖のように、そうでなければ守護霊のように感じている。

『無門関』で一番短いのは第4則で本文はただ1行。
 
あるとき或庵和尚が問うた。「ダルマにはなぜ髭がないのか? さあ、答えろ!」
 
無門が言う。座禅はいつも本気であるべし。悟りは本物でなくてはならない。
ダルマを知りたければ正面きって向かえ。しかしこう言ってしまうとダルマと自分が対立してしまう。
 
頌(じゅ)にいわく。
  おろかな奴の夢を解くな
  ダルマに髭のない話など、ただ眠くなるばかり
 

ぼくが知っているダルマは禿頭で髭もじゃなのだが、
この時代中国ではダルマには髭がなく、
インド人なのに髭のない彼は特異とみなされていたらしい。
 
さて、ダルマはいつから髭もじゃになったのか? ダルマになったつもりで考えてみよう。
自分がダルマになってしまえるかもしれない。
そうしたら他人の腕など欲しがるなと言ってやれる。
 
ついでには遠い昔には、夢を解読したり占ったりするのは知識人の教養のひとつだった。
日本の平安時代には夢を売買することもあった。

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桜の女神に禊される■古代中国版勾玉の写真 18:37
玉製品
玉製品
玉製品
↑勾玉の親類ともいえる古代中国の玉製品。勾玉との親戚関係はさほど遠くない。
上の2点、円環(璧・へき)の一部が欠けているものは「玦(けつ)」という。
写真下は獣の牙または角をもしたものか、養蚕のカイコにも見える。


新聞の新刊案内で見た本を探しに最寄りの書店に出かけた。
ディーン・クーンツの新刊『オッド・トーマスの霊感』、
ナンシー・クレスの新刊『ベガーズ・イン・スペイン』が
文庫のコーナーに平積みされていた。
 
ナンシー・クレスは『プロバビリティ・ムーン三部作』の著者。
すっかりと嬉しくなって、
『世界文明一万年の歴史』(マイケル・クック、千葉喜久枝訳、柏書房、2005)、 
『神話と民俗のかたち』(井本英一、東洋書林、2007)、
などしばらく読みそうにない本を一山買い込んできた。
 
ついでには『ぼくは考える木・自閉症の少年詩人と探る脳のふしぎな世界』
(ポーシャ・アイバーセン、小川敏子訳、早川書房、2009)と、
『奇跡の脳・脳科学者の脳が壊れたとき』(ジル・ボルト・テイラー、竹内薫訳、新潮社、2009)、
『地球46億年全史』 (リチャード・フォーティ、渡辺正隆他訳、草思社、2009)、
などがすぐにも読みたい本として控えている。
 
それでもって読んでいる本は40年ほど前に初版がでたJ・G・バラードの『燃える世界』というSFで、
彼に掴まるとあまりの虚ろさ、出口のなさに呆然としてしまい、
心の昏いところに引きこもっていたくなってしまう。
 
J・G・バラードは最高に好きな作家のひとり。
けれどこれまではどうにも初期の作品についていけなかった。
 
前代未聞の旱魃がマウント・ロイアルという街を襲う。
妻と別居中で湖に浮かべた船に暮らす医師、チャールズ・ランサムも
街を捨てて海岸に移住しなくはならなくなる。
文明が崩壊し、たぶん国家も消滅した世界で、
飲み水と食料である魚を求めてサバイバルする日々がつづく。
 
閉塞した環境のなかで踏みにじられていく人間の尊厳。崩壊していく自我が描かれた物語は、
ぼくたちがイメージする人間性は決して確固としたものではなく、
第二次世界大戦時の日本人や、中国の文化大革命を見てもわかるように、
薄氷そのままに危ういものであることを訴える。
 
狂気と正気との境界、正常とみなされている人とそうではない人との境界、
日常性と非日常性との境界、そういうことがらに興味を持つと
確固とした世界などどこにもないことがわかってくる。
 
たくさんの人は自分が正常な社会の一員であると信じて、
まるで岩盤のように揺らぐことのない今日が明日もつづくと信じて疑わないようにみえるが、
全然そうではない。
誰の心のなかにも号泣したくなるほどの哀しい闇と、
百の太陽を集めたよりもさらに明るい光が埋もれていて、
現実はその中間地点の危うい場所でたゆたっている。

(闇を見る人は多くても光輝を見る人が少ないのがいささか残念ではあるが)。
 
こうやって書くとまったくもって石ヤのブログ風ではなくなってしまうが、
鉱物への偏愛はそれを支える知性あってのことで、
なにもかもまるごとまとめてひとつという感覚が大事と思っている。

(そこには経験を重ねるごとに深まっていく濃密なリアリティというものがある)。
 
書店を出て同じビルの1階にあるスーパーマーケットに立ち寄って外にでた。
いつ降り始めたのかサラサラと気持ちのいい雨が降っていた。
厚手のフィールドコートにカシミアのマフラーという冬支度だったので、
自転車にのって濡れて帰ることにした。
 
雨は眼鏡を濡らし、コートにまだら模様を描き、
ほどなくして髪からしたたるようになり、額を打ち、
途中の和菓子屋に寄るころにはコートをぐしょ濡れにした。
それでも桜の女神が禊(みそぎ)をしてくれているかのように気持ちのいい春の雨だった。
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勝手きままに読んだ本の記録■ビルマ翡翠ヒキュウの写真 22:54
貔貅
↑ビルマ翡翠の貔貅(ヒキュウ)。
ショップではかつてジービーズを展示していたコーナーが
いまやヒキュウで埋もれている。


本を読んだら、粗筋と感想をメモしておくようにと、ローレンス・ブロックが書いている。
とても大事で有用なことだと思っている。しかしつい後回しにすると2、3日は瞬く間に過ぎて、
1週間もすればすっかりと内容を忘れる始末。
せめてタイトルだけでもメモしておくよう心掛けることにした。
ブログに転載しておけば振り返るのも楽というものだろう。
 
自分では正気と思っている起きて仕事している時間と、
本を読む時間と、夢の時間の3つのリアリティを行ったり来たりして日々が過ぎていく。

■2009・01
1/09 『進化する地球惑星システム』東京大学地球惑星システム科学口座編、東京大学出版会、2004
1/10 『ポラーノの広場』宮沢賢治、角川文庫
1/15 『ブッダの夢・河合隼雄と中沢新一の対話』朝日文庫、2001
1/16 『まなづるとダアリヤ』宮沢賢治、角川文庫
1/19 『古代越後・奴奈川姫伝説の謎』渡辺義一郎、自費出版、1978
1/20 早々に中断『イーハトヴへの招待』遠藤祐 
1/24 『時の声』J・G・バラード、吉田誠一訳、創元推理文庫、1969
1/30 『マインドウォーズ 操作される脳』ジョナサン・モレノ、久保田競監訳、アスキー・メディアワークス
 
1月は角川文庫版の最後の宮沢賢治月間だった。
『ポラーノの広場』はシロツメクサの花弁に刻まれた数字を数えて訪ねる神秘の土地なのに、
着いたら下世話な人たちが酒盛りしていたというのが、どうにも解せない。
幾らかはリチャード・ブローディガンの『西瓜糖の日々』に似ているが、
理想のムラ作りにおいても自分が余所者であるところが、宮沢賢治風。
彼は終生、どこにいても、何をしていても、この世界では余所者だった。

『まなづるとダアリヤ』となると、まるでまるでシュールな話が多くて、
彼はシュールレアリズムやダダイズムの人ではなかったかと思ってしまう。
 
鉱物を眺めて美しさに賛嘆するのは確かにシュールな行為ではある。

■2009・2
2/05 『プロバビリティ・ムーン』ナンシー・クレス、金子司訳、ハヤカワ文庫、2008
2/09 『シンクロニシティ』フランク・ジョセフ、宇佐和通訳、KKベストセラーズ、1998
2/15 『プロバビリティ・サン』ナンシー・クレス、金子司訳、ハヤカワ文庫、2008
2/20 飛ばし読み『ユリイカ別冊・宮沢賢治』
   中断『宮沢賢治・存在の祭りの中へ』見田宗介、岩波書店、1984
2/23 『プロバビリティ・スペース』ナンシー・クレス、金子司、ハヤカワ文庫、2009
2/24 中断『ボーン・レガシー上』エリック・ラストベーダー、三角和代訳、ゴマ文庫、2009
 
2月は『プロバビリティ・ムーン』三部作を読んでいるうちに終わってしまった。
情報や感性を共有する異星人の世界観というのが興味深い。
現代人のような自我を自分のものとする以前の人類も、たぶんこうであったことだろう。
『ボーン・レガシー』はロバート・ラドラムの『最後の暗殺者』を受けての物語。
よく書けてはいるのだが、やっぱりラドラムの重厚さ、知的豊饒さに欠けていて、
当面つづきを買うのを見送ることにした。

■2009・3
3/01 『鳥の仏教』中沢新一、新潮社、2008
    中断『図説・法華経大全』大角修訳、学研、2001
3/03 『うつぼ舟1・翁と河勝』梅原猛、角川学芸出版、2008
3/12 『十の罪業 RED』エド・マクベイン編。木村二郎他訳。創元推理文庫、2009
3/17 『十の罪業 Black』エド・マクベイン編。圷香織他訳。創元推理文庫、2009
 
『十の罪業』はエド・マクベイン編纂によるアメリカのミステリー作家10人の中編アンソロジー。
アンソロジーに原稿を依頼されたとなれば、それぞれの作家も熱を入れて書くということなのだろう。
それぞれがおもしろかった。
アンソロジーには知らなかった作家と触れられる楽しみがある。
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読書メモ・生命科学と先端技術で脳を超人化できる!■日本翡翠お地蔵さんの写真 14:47
日本翡翠
日本翡翠

↑ 写真は日本翡翠お地蔵さん。地蔵菩薩は自我をゆるめて大きな視点を得るのに力添えしてくれる。

年末に一冊の本を巡って大騒ぎした。
『マインドウォーズ 操作される脳』(ジョナサン・モレノ、久保田競監訳、アスキー・メディアワークス)という本で、
帯には以下のように印刷されている。

「先端科学が人を革新する」

「米国の先端科学がもたらす脳の劇的進化。これは、SFではない。」

「先端科学を使えば、〜蠎蠅了弭佑鯑匹濕茲襦↓∋弭佑世韻琶を動かす、5憶をすべて完全に残す、ざ寡櫃篥椶蠅簗乙い魎兇犬覆する、コ圧い帽腓錣擦涜硫垢鯤册阿気仕潴欧垢襦↓γ鎖絏淑型代謝を脂肪分解型代謝に切り替えてダイエットする、Ыを急激に治す自己治癒力を高める、他人をロボットのように自在に操作する……といったことが実現する!? 米国防総省国防高等研究計画局DARPAが研究する、人の脳を電気的に、あるいは化学的、物理的に操作して人類に革新をもたらすテクノロジー。これは、SFではない。」
 
新聞の書評を読んで、おもしろそうだと最寄りの書店に探しに行った。
2軒ともなくて、吉祥寺の書店にもなかった。
他の2、3冊の書籍といっしょにアマゾンに注文したら、同時注文分はすぐに届いたのに、
この本だけ届かなかった。
やがてアマゾンからメールがきてキャンセルされた。
 
これは変だ? と紀伊国屋など他の書店のサイトを探しても品切れ状態。
出版されたばかりの本であるし、発売元が角川グループであるなら、
売れるとわかればすぐさま増刷するのが常道というもの。
 
すわ、国家による隠蔽、または自衛隊の買い占めかと色めき立って、もう読みたくてたまらなくなり、
結局はアマゾンのマーケットプレイスで定価¥2480なのに、
¥4800ものプレミアが付いていたのを購入した。
 
2ヶ月ほど積んでおいたのをやっと読み終えたのだが、
軍隊によるLSDの人体実験などいまさらなことが書かれていたり、
民間で開発された技術は軍事兵器への転用が可能であり、
その逆もあるなどと、わかりきったことが説かれている。
まるで新聞の論説のようだった。
 
軍事研究所や軍からの資金援助を受けた研究者たちは、
兵士たちが4−5日不眠不休・疲労困憊・ストレス山盛りであっても、
いかにしたら効率の高い人間兵器として活用できるか、研究しつづけている。

脳をコントロールする技術は、やがてはスピンオフされて、
サラリーマンやトラック運転手の仕事量を高める技術に転用されることになりそうだ。
 
いまでも薬局で買える薬やドリンク、サプリメントを上手に使えば、
ある程度なら脳の操作は可能なはずで、10年もすればビジネスマンの会議・商談用ドリンクとか、
受験生のための記憶力増強剤なんてのが売られることになるのかもしれない。
 
いずれにしろ社会はますます窮屈で、他者にそらぞらしくなって、
孤独で味気無い世の中になってゆくようにみえる。
自我を含んで自我よりも大きな自分に出会わないと、
異常発生した砂漠飛びバッタやラットのようになってしまいそうだ。
| 読書日記 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by YK
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