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続・石に魅入ると世界の全部が断然新しくなる  09:49
日本翡翠本勾玉
<石に魅入る・4> 
修行は行を修める。「行」は向こう側へと行くためのシステム化された行為。
修験は「験」を修める。「験」は超人的能力。この力を使って加持祈祷したり、向こう側を旅する。
向こう側へ行くぞ、行くぞ、必ず行くぞ、という呪文があって、
「ギャティ ギャティ ハラ ギャティ ハラソ ギャテイ ボウジソワカ」という。
行を修めてきたたくさんの人たちがいたことを思い出すと、心にゆたかさの潮がよせてくる。
若かったころは、なにかの間違いでここで暮らすはめになった異星人のようだった。
自分が望んだわけではない星にいることが不満だった。
いつだったか自分は日本人ではない、アジア人であることを発見して、世間に対して強くなれた。
いま、心のうちなる豊かさに身をまかせると、ただの人であることが嬉しいことであることがわかる。
「石に魅入る」とはそういうことだ。


<石に魅入る・5> 
時代の雰囲気に押し流されるところに流行が生まれる。いったん流行の波にのってしまうと、
それが勘違いでも正しいように見えてしまったり、不必要でも必要欠くべからざるものに思えてしまう。
かつて週末に超人的スケジュールで海外旅行するのが流行った時代があった。
ボーナスはたいてブランドもののブーツやバッグを買うのが流行した時代があった。
昨今の流行では、プチ旅行やネットで話題のレストランやカフェ、ギャラリー巡りがおしゃれに見える。
これらはすべて対社会的な行為で、精神世界的な意味合いで「石に魅入る」のは、これらと対極にある。
一時的に世の中から離れる。社会的・世間的な自分を脱ぐ。静謐さに憩う。
みやび・はなやぎ・わび・さび、そういうものを入り口に、向こう側が開けてくるのを待つ。
石がふいに昨日までとは違う顔を見せる。あるいはほほ笑む。そうやってそこから新しい一歩が始まる。

(写真は日本翡翠原石白 130mm, 2.4kg, ¥36,000)
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若狭路で不老長生探索者たちの足跡をみる・3  10:05
気比神宮
気多大社

<古代の若狭・7> 
気比神宮には着いた日の午後と翌日の朝と2回参拝した。
気比は古くは笥飯と書いて飯櫃を意味した。
ヒは霊・魂、ケは食という。ケを「気」と読むなら霊気の強い土地・神のようでもある。
気比の大神は応神天皇が幼かったころに名前を取り替えた神として知られている。
彼の両親の仲哀天皇・神功皇后とも関連性が深い。
日本地図をみると敦賀と琵琶湖北端との距離の短さに驚き、
若狭を玄関口とした新羅や高句麗との近さに納得する。
応神天皇の時代以降王の墳墓は急激に大型化して、半島伝来のきらびやかな副葬品が増えた。
この繁栄ぶりには朝鮮半島の東側−若狭−大和を結ぶ交易の増大と、
若狭や琵琶湖周辺に入植した移民たちの経済的発展が加味したと想像できる。
越中富山の薬売りや、輪島塗りなどの漆器、若狭のメノウ製品はその時代に根付いたようにも思える。
記憶違いでなければいいのだが、出雲の勾玉制作は
平安時代以降中断していたのを若狭から職人が来て再興し、
甲府の水晶製品は若狭の流れをくむ京都からの職人によって起こされ、
糸魚川での勾玉制作は甲府に習った。新羅あってのことだった。


<古代の若狭・8> 
羽咋(はくい)という難読の地名の土地に着いて、
気多大社に向かうタクシーに乗っている間に俄雨(にわかあめ)が降った。
神社について参道を歩いているうちに小止みになった。
まわりの木々も境内も拝殿も自分も清められてすがすがしさこの上ない。
何年も前から「気比」と「気多」とふたつの神社の名前に引きつけられて、訪ねてみたいと念じてきた。
気多大社の祭神はオオクニヌシで、卑弥呼の時代、日本海の岸辺伝いに交易路をもっていた
出雲の勢力の能登半島の拠点がこの土地だった。
八千矛はここで体勢を整えた後、糸魚川の奴奈川姫を訪ねたのだろう。
良寛の故郷の出雲崎という地名はその名残であるかもしれない。
気多大社はハートフルだった。
朝露のように健やかでのびやかで清らかな「気」が土地を覆っていた。
拝殿で手をあわせると神が機嫌よく笑っているのがわかった。
神社を出て海岸に向かうと風がふき雨足が強まり雷がなった。
傘をあおられながらも趣味の砂のコレクションをして帰路についた。
ここの神社はスーパー凄かった。
(写真は上が気比神宮、下が気多大社、右側の鳥居が入らずの森・原生林への入り口で誰も入れない。)

「咋」(さく・舌つづみを打ってものをたべる、たちまち)
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若狭路で不老長生探索者たちの足跡をみる・2  09:58
若狭姫神社
若狭彦神社

<古代の若狭・4> 
お水取り・お水送りの行事は不老長生を目指した仙術の薬学と関連していると考えている。
若狭・能登は北の玄関口で薬学・冶金学、玉(ぎょく)製品の研磨など古代中国の先端技術が
新羅経由でこの地に伝来した。
万葉集には不老長生の霊水「変若水(おちみず)」がいくつか歌われていて、
飲めば若返る秘薬へのあこがれがあったことがわかる。
錬金・練丹術、仙術、漢方では不老不死・羽化登仙の秘薬として筆頭にあげられたのが
丹生(辰砂)(丹・パワーを生む石)だった。
『丹生の研究』(松田壽男、昭和45年、早稲田大学出版部)では、
小浜市の遠敷(おにゅう)という土地が辰砂の産地としてあげられている。
辰砂の採掘は丹生一族が独占していて、彼らは氏神として丹生都姫をまつった。
だから丹生という地名や丹生神社があり、近隣から水銀濃度の高い赤土がとれるのであれば、
かつてそこが辰砂採掘の土地だった可能性があるということになる。
お水取り・お水送りの行事は観音菩薩にそなえる若水を送るのではなく、
送られたのは「変若水」で、若狭の玄学と東大寺の結び付きを示すものと想像できる。


<古代の若狭・5> 
「さて、遠敷という義(こころ)は美しき丹土(につち)の出るところ多し、
ゆえに小丹生(遠敷)という」(『若狭旧事考』伴信友)、
「平成3年、遠敷の山中で古い洞窟が発見され、辰砂が採取されたうえ、
水銀含有が証明された」などという記事をインターネットにみつけると、
遠敷明神は辰砂の神かと興奮してしまう。
神宮寺のパンフレットを読むと、
「遠敷(おにゅう)は朝鮮語ウォンフー(遠くにやる)のなまり」であるという。
『丹生の研究』(前掲書)には小浜市の太良庄(たらしょう)というところにはいまも丹生神社がある。
とあるので遠敷(小丹生)は語呂合わせとしてパスしてもいいような気がする。
この地には不老長生の八百比丘尼入定の地との伝説もある。
越中富山の薬売りが地場産業になったのは、そこに薬学が栄えていたからだ。
丹生の伝説とお水送り、八百比丘尼、富山の薬売り、と重ねていくと、
アンチエイジングが都の貴族たちの夢で、
彼らにとって若狭や北陸は幻想の土地だったことが見えてくる。(写真はスペイン産の辰砂原石。


<古代の若狭・6> 
若狭彦・若狭姫の名称は、こうした豪族が実在したのか後世の創作なのか、定かではないが、
ヒメヒコ時代を彷彿とさせて興味尽きない。
よく知られているように卑弥呼は鬼道(祖先崇拝)につかえる巫女だった。
男と交わらずに老いた。けがれを避けて高殿に暮らした。彼女は神託を降ろした。
弟が神託に従って民を治めた。
とあるように姉妹と兄弟がペアになって政治(まつりごと)を行う政治のスタイルを
便宜的にヒメヒコ制とよんでいて、この考え方が民俗学でいう「妹の力」に発展していった。
拙著『日本ヒスイの本』(北出幸男、青弓社、2016)では
起源を狩猟採集時代の女の呪術に求めている。
神をまつる司祭は神が憑依/憑霊する器となることもあって、司祭と神が同一視されやすい。
若狭彦・若狭姫がまつる遠敷明神は正体がしれないが、おおむね土地神で、
新羅からの渡来民の祖先神だったかもしれない。後に姫・彦と合体していったのだろう。
この遠敷明神が神仏混淆の時代に仏教を信奉することになって、本地を薬師如来と定めた。
翡翠の勾玉はもともとが女の呪術に属していて、
ヒメヒコ制のもとでの呪具だったと思っている。

(写真は上が若狭姫神社、下が若狭彦神社)。
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若狭路で不老長生探索者たちの足跡をみる・1 08:49
気比神宮長命泉
神宮寺お水送りの霊泉

<古代の若狭・1> 
日曜日をはさまないと具合が悪い私用があって2泊3日、若狭に行った。
自分が知っている真冬の能登は天が落ちて人が地を這うごとくに気配が重く、
海岸道路では波の花とみぞれがともに舞う極寒の地だった。
南極探検隊の覚悟ででかけたが、初冬の若狭は日差しは暖かく土地の気はやわらかでやさしかった。
日本翡翠を扱うようになって、卑弥呼の時代の日本列島の政治経済に関心を抱くようになった。
邪馬台国北九州説ファンの自分にとっては、卑弥呼が北部九州にいて、奈良では初期ヤマト王朝がはじまり、
出雲が日本海の海岸伝いに大きな交易圏をゆうしていた、そういう時代。
拙著『日本ヒスイの本』(北出幸男、青弓社、2016)で紹介したように、
各地の豪族はヒメヒコ制と俗称される統治形態にあった。
これらの関心のもとに小浜市では神宮寺と若狭姫・彦神社を訪ねた。
敦賀では気比神宮を、羽咋市(はくい)では気多大社によった。
卑弥呼の時代が凝結しているかのようで、凄いな、凄いな、と思いどうしだった。
(写真は気比神宮、長命水という霊水を吐く玄武。玄武は北の霊獣で、
不老長生の霊水は北からもたらされ龍穴からわきでる)


<古代の若狭・2> 
神社仏閣はおおむねどこも容姿が似ていて、撮影しても興奮度が小さい。
みんなどこかで見た風景になってしまう。
でも、福井県小浜市の遠敷明神関連の話は、第一に卑弥呼の時代の列島と朝鮮半島との関係性において。
第二に辰砂(にゅう)との関係において。辰砂は金より高価な顔料だったが、
同時に不老長生の秘薬であり、この地には練丹術・仙術が伝来していた雰囲気がある。
第三にヒメヒコ制という豪族たちの政治形態を考えるうえで、目新しくて新鮮な彩りに満ちている。
日本翡翠の勾玉が朝鮮半島との交易品に用いられたり、
豪族間の面子を重んじる文化・やりもらい文化のなかで重要なポジションを占めていた時代の話なので、
日本翡翠と無関係というわけでもない。古代が近くなると大珠や勾玉がいっそう親身になる。


<古代の若狭・3> 
小浜市の神宮寺は、奈良東大寺のお水取り行事に先行するお水送りの行事がある寺として知られている。
ここから送った聖水・若水が地下水脈を10日間かかって流れて東大寺の井戸に到達する。
神宮寺は奈良時代から江戸時代までつづいた神仏混交の風習を残していて、
本尊薬師如来は土地神の遠敷(おにゅう)明神と同体、遠敷明神の神名を若狭彦・若狭姫という。
通常の古代史では朝鮮半島との交流は、
対馬・北部九州から瀬戸内海を介して都に至る航路のみが強調される。
日本海を極東の地中海に見立てるなら、朝鮮半島の東側(おもに新羅)や
ロシアよりの土地(おもに高句麗、のちの渤海)は対馬を目指すよりも
そのまま南下して能登半島や若狭、佐渡島に着く方が断然早い。
古代には列島文化は太平洋岸よりも日本海側のほうが開けていた。
遠敷や若狭、敦賀など若狭地方には朝鮮語由来の地名がたくさんあって、
朝鮮半島との交流の濃密さを物語っている。
そのことに目を向けると、これまでの日本史よりもっと大きな視野のもとに
古代社会を眺められるようになる。東京中心の文化が一過性のものであることもわかる。
(写真は小浜市の神宮寺の霊泉、ここから湧きでる若水が東大寺に送られる)

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初冬の若狭旅行、おもしろおかしの土産話  18:59
夢彦・夢姫神社
<若狭旅行の土産話・1> 
若狭・小浜に知人を訪ねた。
夢のように歓待されて連れて行ってもらった神社のひとつが
このあとしつこく紹介することになる若狭姫神社。
そこの境内には夢神社というのがあって夢かと思った。
祭神は夢彦・夢姫とある。古い時代には、夢は現実になる(ドリーム・カム・ツルー)と信じられていて、
夢が売買されることがあった。眠ると魂が身体を離れて異空間に飛ぶ。
いとしい人を夢にみるのは、相手の霊が自分を訪ねてくるからだと信じられていた。
夢彦・夢姫は夢の元締めのような神様名だ。
夢彦・夢姫と和紙に墨書きして、小さな勾玉といっしょに枕の下に敷くと、
きれいな夢を見られる、夢は現実になる。
(夢彦夢姫正夢セットの商品化を企画中、真似ちゃ駄目だよ)
 思いつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらん 夢と知りせば覚めざらましを(小町)


JR敦賀駅
<若狭旅行の土産話・2> 
どこかにいるんだろうとは思っていたが、ほんとうに見掛けるとは期待してもいなかった。
爬虫類型人類のことで、絶滅期に恐竜たちの多くは鳥への道をあゆんだが、
ごく一部は進化の方向を知性の獲得へと振りむけ、爬虫類型人類になったとされてきた。
ラブクラフトばりのホラーとは思うが。彼/彼女と邂逅したのは北陸の敦賀駅、
金沢へ向かうプラットホームだった。
うちではあんたの骨やら卵殻の化石を売っていたし、いまもたくさんの在庫がある。
といってみたが彼/彼女はグルルルルッと小さく言葉をにごしたきりだった。


JR羽咋駅
<若狭旅行の土産話・3> 
敦賀からサンダーバード号という宇宙船にのって金沢へ、ローカル線に乗り換えて1時間、
羽咋(はくい)という駅に降りたら、「UFOのまちへようこそ」の看板とともに、
あの気色悪い、どうにもお友だちにはなれそうにないネオテニー型宇宙人の出迎えを受けた。
幸い二次元画像だけだったから気絶せずにすんだものの、
あれがキグルミやほんものだったりしたら、絶叫してしまうところだった。
異様に人差し指が長いやつとかカエル顔のやつとか、昔風タコ型より、
宇宙人は無愛想でも耳が長くて皮肉好きなやつがいい。
そんなわけで羽咋(はくい)のネオテニー型宇宙人は撮影していない。
余談ながら、敦賀の町にはあちこちに銀河鉄道999関連のブロンズ像が飾ってあった。
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フェイスブックのまとめ・過ぎてゆく日々のこと 12/08 2017 09:54
日本翡翠三日月
11/29<過ぎてゆく日々のこと> 
店から山の倉庫に運んだ荷物をほどくのに助っ人を頼んだ。
移転のための力仕事で五十肩が再発しかかっているし、この助っ人たるや鉱物界の生き字引のようで、
名前のわからない標本や、鑑別しがたい原石の名前を教わりたかったこともある。
山の倉庫では、新聞紙やボール紙などの紙ゴミは片端から燃やしてしまえるので片付けも楽だ。
長い時間焚き火しつづけている間に夕暮れになり、
西の空にさえざえと月が輝いた。草刈り鎌のように鋭く妖しの光りを放つ月だった。
三日月は不老不死の霊薬ソーマをいれる器で、シヴァ神は月の杯(さかずき)を傾けてソーマを呑む。
「ソーマよ、すべての欲望の成就されるところにわれを導け」とリグベーダでうたわれたソーマは、
ひところベニテングダケの絞り汁との意見があったが、自分はダツラだと思ってきた。
月の霊気にソーマを重ねるなら、予知能力や三千世界を霊視する能力に目覚められるという。
助っ人といっしょに三日月に乾杯したことだった。


11/29<過ぎてゆく日々のこと>(月の話のつづき) 
日本神話では太陽とアマテラスを結び付けたために、月がないがしろにされている。
天の岩戸隠れを日蝕とみてアマテラスは太陽神と思われているが、
『古事記』では大きな神に仕える天界の女性司祭のように見受けられる。
人間の祭儀があってこそ宇宙はただしく転変するという考えが古代にはあって、
アマテラスが岩屋に籠ったとき宇宙の規律が崩壊した。
彼女はスサノウから受けたけがれを祓って再生しなくてはならなかった。
世界各地の神話では太陽は男で月が女である場合が多い。
日本神話では編纂時に女帝・持統天皇への思惑があって、
女司祭に太陽をまつらせたといわれている。
対比する月はでしゃばらないよう草々に舞台から追いやられた。
それでも穀物栽培と家畜飼育を高天が原にもたらしたのは月神だった。
インド神話では太陽神スーリヤはビシュヌ神に比定され、月神チャンドラはシヴァ神に同定された。
リグベーダの霊酒ソーマは後の神話の甘露アムリタと同一であって、
月光がもたらす狂気を飲みくだすなら、アムリタを拝受するのと同じように
むこう側へと飛翔できるといわれてきた。
陽光は生命を育み、月光は霊性を賦活する。
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フェイスブックのまとめ・過ぎてゆく日々のこと 12/07 2017 16:17
アパートの窓から
11/26<過ぎてゆく日々のこと> 
きょうは昼からずーっと、わき目をふらずモノもいわずに撮影大会。
PCの写真をチェックしながらお茶して、夕食の間だけ中断、
夜の10時を過ぎたいまは、撮影した写真をセレクトしている。
閉店セール以降、荷造り・引越し・荷ほどきとつづいて、
夏に到着していた新着製品に触れる時間がなかった。
きょうの撮影分は約30ミリの獣型勾玉が12点。
日本翡翠ではたぶん、だれも作ったことがない三日月(クレセント)ペンダントが12点、
6ミリ玉ブレスレットが20数点。
獣型勾玉はハルニレ、イナホ、ミズハ、ハルカゼ、ワカクサ、などと名前を考えた。
ミズハはミズハノメ(水端の女)。天武天皇が戦勝を祈願した水辺の女神。
弁才天や吉祥天に似て、惜しみなく財宝と福徳と勝利を授けてくれる。
ワカクサというのも可愛い。


11/27<過ぎてゆく日々のこと> 
地名に無頓着だけれどここは武蔵野の一部なんだろう、
コンクリートのアパートの5階の窓からみるきょうの丘陵はこんなふう。
もみじの季節の到来が遅くなっているように思う。
このあたりは縄文時代から弥生時代を経て戦国時代に至るまで連綿と人が住んできた。
なので30年ほど前、知り合いの少年が古代の霊に憑かれたといっても不思議ではない。
少年は夜な夜な枕元にたつ武者の霊に悩まされた。
幾らかは師匠のように慕っていた霊能力者に頼んで除霊してもらって、この問題は解決した。
日本翡翠新製品の「三日月ペンダント」のコメントを考えながら、
窓越しに黄昏の丘陵を眺めていて、そんなことを思い出した。
少年の祖母はやさしい人だった。霊能力者は晩年には故郷に帰った。
とおの昔にふたりは他界してもうこの世にはいない。
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フェイスブックのまとめ・過ぎてゆく日々のこと  12:47
獣型勾玉
11/20<過ぎてゆく日々のこと> 
倉庫用にかりたアパートの部屋は左右にストックボックスが山積みされている。
巨万の富が眠る部屋とは思えず殺伐としている。
居住空間じゃないので「気」が整わなくても仕方がない。
商品を撮影するための場所が作れず、結局は自分の仕事部屋の作業机近くに、
焼き鳥屋の椅子のような小テーブルを置いて撮影台とすることにした。
夕焼け空の下、青く鎮まった空気のなか、用水路伝いの遊歩道を、
倉庫から住まいのアパートへと台車にテーブルを乗せて運んだりすると、
光りの味覚と肌をさす冷気が重なって、身体がアジアの土地へ運ばれていく。
空想のなかで線香をともしインド映画のミュージックテープをかける。
橋を渡って頭からショールをかぶったタバコ売りを見る。
コンクリートのアパートに着いてエレベーターをよぶと、
なかからのっそりとコブウシがでてきた。
(こういう獣型勾玉をこれからたくさん撮影する)


11/23<過ぎてゆく日々のこと> 
以前にフェィスブックに掲載したことがある50年ほど前のヒッピー新聞や
アングラミニコミ誌のたぐい、古い時代のSF関連雑誌を古書店に売ろうと思って、
ボール箱に詰めるために山の家に行った。
アンナ・カリーナ主演のゴダール映画のアートシアター・カタログやら、
イザベル・アジャーニの写真集がでてきて、これらはやっぱり脇にとりおいて置くことにした。
アンダーグラウンドとかサブカルチャーとか、
自分が目撃者だったそれらの世界がいまでは研究対象になっていることが不思議な感じがする。
当時はバタイユにクロソフスキーなど思想的にもフランス狂いで、
しかもフランスはニューヨークの向うにあって、アメリカの一部だなどとうすぼんやりと思っていた。
こいうちぐはぐな思い違いというのが、毎日毎日たくさんあるんだろう。
人間たちのしきたりがよくわかっていなかった頃、
ぼくは本気でヌカダノオオキミに恋をしてアンナ・カリーナに魂を奪われていた。


11/24<過ぎてゆく日々のこと> 
サボテンは数年ごとに植え替えないと、
自分の根からだす毒に中毒して枯れてしまうときいたことがある。
これらの毒は自分のまわりに他の植物を寄せ付けないために分泌するという。
サボテンを愚かな奴とそしってみたが、人間にも思いの自家中毒があると思いなおした。
ちょっとの想像や思い込みが妄想に発展すると、疑いようのない真実に思えてくる。
自分を守ったり正当化したり、他者が自分に害意をもっているという考えにからめとられてしまえば、
夜もおちおち眠れなくなる。奈良時代あたりからはじまった怨霊信仰は顕著な例だし、
戦国時代の武将たちは疑心暗鬼にかられるや無実の家臣の首をはねた。
私たちの毎日もまた自分の思いに自家中毒していることが多々あるんだろう。
そういうことがわかっていても、自分の確信が妄想にもとづいていると気付くのはとても難しい。
ラクダが針の穴を通るってか? そんなもんじゃない、ゴジラが縄跳びをくぐるほどに難しい。
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フェイスブックのまとめ・過ぎてゆく日々のこと  22:08
山の家
★11/02<過ぎてゆく日々のこと> 
1ヶ月ほど前だったと思う、
小川の水門を越えて水があふれ流れてゆくビジョンを見たと、フェイスブックに書いた。
当時はショップの棚の処分に困っていた。
8本ある高さ180センチサイズの木製の棚を解体処分するには時間も費用もたくさんかかる。
とくに自作の棚3本は愛着もあって壊すには名残惜しい。
シンクロニシティが起きたのか、ビジョンを見た翌日に、
それら全部を引き取りたいという人が現れて、この問題は一挙に解決した。
相手はなんとか大学の某研究所の先生で、
彼自身大学から研究所へ資料を移転するのに、とても大変だったという。
「とくに残りの1割がね、ノイローゼになるほど大変でした」とのことだった。
博物館のようなところでは展示品の何倍もの収蔵品がある。
うちの店も似たようなもので、片付けても片付けても、
意外なところから鉱物標本や日本翡翠原石がでてくる。
9割方片付いたあたりでは気力も体力も衰えて、SFやミステリーを読んで心の支えとした。
そんなこんなで移転準備はおおむね終了して、あと数日でみくまり(水分嶺)にでる。
(もう少しすると山の倉庫近辺はこんなふうになる)


★11/05<過ぎてゆく日々のこと> 
骨休めという。きょうは家で休養することにして店に片付けにいかない。
そうか骨休めなんだと思う。
旅人は身体を気遣う。自分の身体が過剰に疲れてしまわないように、
ストレスに病まないように、メンテナンスに気を配る。
身体が壊れてしまったら旅することも壊れてしまう。
今回の引越し騒動で腰が凝るようになって、骨の休養が必要なんだと知ることになった。
骨休めしてアボリジニの画集などをちょい開きしてみる。アボリニジに限らず、
メキシコのウイチョール族の毛糸を貼りつけて描く絵画や、バリ島の絵画、インドのミティラの宗教画。
どれもがアートとスーベニールの境界を見定めにくい。
寝起きの半ぼけの状態、泥酔や性の恍惚、瞑想に伴う静寂、大きな意識への合一など、
意識には様々なスペクトルがある。日常的意識を離れた状態を変性意識とよんでいるが、
プリミティブアートは変性意識下の表出であることに興味の焦点がある。
これらの絵画と触れ合うことで、私たちは自分の内なる古代と出会える。
日本翡翠など天然石との出会いも同じことだ。つまり心も骨休めしたがっている。


★11/07<過ぎてゆく日々のこと> 
きょう店のカギを不動産やにかえした。
旅先の町に1週間ほど暮らして、身体になじんだホテルをあとにするのに似ていた。
箱詰めして山と積んだ荷物を前に、山の倉庫と新たに借りた倉庫代わりのアパートに、
それぞれ2トン車一回で運びきれるかどうか不安だった。
運送会社が要員を一人と車一台をおまけに付けてくれて悩みは解決した。
最後に残った不用品も軽トラック一台で運びきれるかどうか不安だった。
回収業者が、もうひとまわり大きな車でくるから心配ない、といってくれてこの悩みも解決した。
早朝にホテルをチェックアウトする。タクシーかリキシャで鉄道駅に着くと、
乗車予定の列車はすでにホームに入っている。そんなふうに引越しがおわった。
そうやって道はつづいていくんだからあしたは新しい町にいるんだろう。


★11/10<過ぎてゆく日々のこと> 
一昨日につづくきのう、そしてきょうは新しい町にいるわけではなく、
現実的には山の倉庫に行って運びこんだ荷物の片付けをした。
原石類を詰めた20数キロのボール箱をもって右往左往するのは引越し準備と変わらない。
不要になった椅子3脚を丸鋸と金槌で解体して燃やした。
デッキチェアに身体を休めて焚き火を眺めていると、
人気のない山里の静けさに100年昔に戻った気分になる。
薄汚れた墨染めの衣に鉢の子をかかえた良寛が橋を渡ってやって来そうだった。
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フェイスブックのまとめ・過ぎてゆく日々のこと 10:08
日本翡翠ギョロメ勾玉
<過ぎてゆく日々のこと> 
電車のなかでサッカーボールを挟めるくらい脚を開いて座っている女性をみると、
つい視線は股の付け根にいってしまう。スケベ心ではなく動物的条件反射なんだから仕方がない。
あるとき親しい石ヤのひとりがケバイ女性を見て、「グッド・スペーシメン」といった。
ぴったりと肌にはりついたシャツから乳房がこぼれださんばかりだった。
ノットマイタイプではあったけれど、たしかにグッド・トリートメントな女性だった。
電車のなかできれいな脚の女性をみるとそんな会話を思いだし、
鉱物も花も脚も美しいものは美しいと思ったりする。
けれど大人の常識としてルネッサンスの彫像のように美しい脚と出会っても見てみぬふりをする。
なぜこんな話をするかというと、もうじき店への通勤から解放されて、
電車に乗らなくてすむようになる。そのことが嬉しい。
きれいな脚たちにさよならを言わなくては。
(勾玉の尾も脚としてみるならフェティシュなまでに美しい)2015 8950


<過ぎてゆく日々のこと> 
子供の頃、母の実家の裏山では割り箸の頭ほどに小さな水晶を拾えた。
表面がコケやらカビで覆われた小屋ほどに大きく丸味のある花こう岩が幾つも露頭した山だった。
地表は麦飯石様の小粒な礫で覆われ、松が植林してあった。
松の匂いは気持ちを洗う。官能を開くということもあるようだ。
何列にも植林された大人の背丈ほどの松の根元を丹念に探すと、
マッチの軸や割り箸の先端ほどの水晶のポイントを見つけられた。
母の話ではその山のどこか、ひときわ大きな岩が重なりあった場所に、
紫色の鮮やかなアメシストの晶洞があるとのことだった。
母の実家にはもう親しい人もいなくて訪ねていくこともままならない。
店で片付けをしているとあちらの箱やこちらの収納ケースから
何十本もの小指大の水晶ポイントがでてくる。
子供のころの自分に見せてやることができるなら、
宝物と遭遇した驚きに彼は卒倒してしまうだろう。


<過ぎてゆく日々のこと> 
朝7時から8時の間に起きる。
ここ1ヶ月間ほどは、朝食までの約1時間が頭のなかを整理する時間になっている。
机の上や枕元のメモをワープロしたり、フェイスブックを書いたりする。
フェイスブックを3話ほどまとめるとブログ1本分になる。
これらの作業は脳内環境の整備に便利と思っている。
思い付きはメモを残さないと忘れてしまう。
メモは読みやすい形にしておかないと埋もれてしまう。
一行のメモから新製品が誕生することもあるので、メモの整理は生きてゆくに不可欠だ。
朝食が終われば出勤タイムで、店に着くとあとは一日中引っ越し荷造りがつづく。
博物館を移転するようなものだと思っている。ブローティガンの登場人物のようでもある。
| つれづれなるままに | comments(0) | trackbacks(0) | posted by YK
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