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弥生時代の呪術に勾玉文化の背景をよむ(6)  08:41
アニマル
<勾玉と弥生時代の呪術・12> 
呪術と書くといかがわしくて、祈祷というと高尚な感じがする。
近代合理主義のせいでそのように思い込むよう誘導されているだけのことで、両者に隔たりはない。
呪術も祈祷も向こう側の霊的存在、仏や神々、精霊、霊獣に頼んで、
自分の願いをかなえてもらおうとする技術で、
呪文・真言と神具呪具とイメージ想起力がセットになっている。
世俗の通念のように、呪術は呪術師が念力を飛ばして、依頼人の敵を倒したり、
恋の成就を助けるわけではない。向こう側の精霊なり神なりを揺り動かして、
願いをかなえるよう働いてもらう、そうしたロビー活動みたいな能力が呪力であり
法力、修験の験力だった。密教ではこれを身・口・意という。
印を組むという身体動作、口でとなえる呪文、意識的な神仏のイメージ想起をセットにして
仏や神を自分の身体に招く。呪具神具はイメージ想起の手助けとして有用だった。
こうした呪法の基礎は弥生時代のシャーマンによって構築されたと思っている。 17-2


<勾玉と弥生時代の呪術・13> 
弥生時代、母系社会の男たちを思うと、バリ島やインドの田舎の町の若い男たちが浮かんでくる。
全員がそうというわけではないだろうが、気立てがやさしく覇気に欠けていた男たち。
安ホテルのスタッフには失敗しても悪びれない若者がいた。
彼らをヒントに弥生時代の暮らしぶりを追うと、
そこには「自己責任」という概念がなかったと思えてくる。
現代の日本では、小中高の受験から自己責任にさらされている。
職業の選択とその後の競争が重圧となっている。
結婚相手の選定もフルストレスでハイリスクな問題だ。
政治家たちは企業やメディアと結託して「自己責任」を美化する。
こういうことが弥生時代にはいっさいなかった。
「自己責任」という言葉が重みをますようになったのは君主の登場以降のことと疑っている。
そこでは、君主が家臣を断罪・処分する名目につかわれた。
そのくせ君主は自己責任から免罪されていた
。弥生時代以前の社会では、決断恐怖症といっていいほどに、
だれもが責任をとらなくて済むよう工夫されていたとも思える。
現代人に比べるなら彼らは明日を思い煩うことなく、その日暮らしできたようだ。 17-3


<勾玉と弥生時代の呪術・14>
母系社会を夢想すると、自己責任が育ちにくい構造であることがわかる。
娘たちは自己責任のもとに結婚相手を決める必要がなかった。
婚前交渉の相手を取り替えても非難されなかった。
母子家庭が滅多なことでは生まれない仕組みだった。
夫不在という意味では母系の大家族は母子家庭によって構成されていたともいえる。
職種が細分化されていなかったので男女ともに職業の選択に悩むこともなかった。
呪術は様式と手順をとうとび変化を嫌うので、同じような状況が数百年つづいても、
人々はそれを不便に思わなかった。生産性や効率、時間の有効活用などもさほど考慮されなかった。
大切なのは向こう側の意図に従うことなので、酋長も呪術師も、判断を誤っても、
今の社会のように糾弾されなかっただろう。
決断と責任という重しのない社会では、人々は現代人より気楽に生きられただろうし
、頼りげなく覇気に欠けているのが普通だった。
彼らは現代人より早死にしたが、時間はたっぷりあった。
現代人は心を育てる余裕がない、
彼らの心は小さい、と、いくらかは縄文時代に似た辺境の民の女呪術師が言っている。

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弥生時代の呪術に勾玉文化の背景をよむ(5) 10:49
法身普賢
<勾玉と弥生時代の呪術・10> 
おそらく弥生時代は母系社会だった。
父系社会が父親の権威を増殖させ、競争社会を育てたのと違って、
母系社会ではエディプス・コンプレックスは発展せず、
息子が父親をしのぐよう切磋琢磨するなどということはなかった。
家系は母から娘に継がれ、家財や土地も同じだった。男は入り婿した。
通い婚である場合もあれば、妻の家に暮らす場合もあった。
具体的に弥生時代の人たちがどうであったかは、とぼしい知識をもとに想像するだけだが、
女たちは貞淑な妻を演じるよう求められなかった。
男の権威は実家での姉妹の兄弟(伯父)という立場にあった。
彼らは実家の用心棒、アドバイザーであり、妻の家では居候だった。
男たちが集って戦争するようになって男たちの権威が確立されていった。
結婚適齢期になると、男たちは見初めた女のもとによばいした、
「よばい」を「夜這い」と書くのは男社会の発想で、互いの名を「呼び合う」ことで
霊的結び付きを深めたという解釈のほうが母系的だ。
ここで呼び合う名前は世間的な愛称ではなく、呪術的で霊的な「本名」だった。
父系社会が確立され、儒教や仏教が誕生する前の話だから、セックスに関連した倫理は、
現代人の感性とは相当に違っていた。女たちは自分の部屋に男を迎えたんだから、
男を選ぶことができた。女たちは「社会」と戦わなくてすんだ。


<勾玉と弥生時代の呪術・11> 
現代社会では男は女を品定めする。衣服を脱がせたらどんなふうか、ベッドではどんなふうかを夢想する。
そういう視線はときに女にとってわいせつで堪え難い。でもそれは男社会ゆえのことで、
社会的な慣習に男も女も染まっているゆえのことなんだろう。
父系社会では通常、家系は父から息子に継がれる。それにともなって土地や家財も息子に譲られる。
霊系は男だけが重視される。こういう社会では論理を省略すると、性行為は蔑視され、女は商品化される。
女の性的自由は強く戒められて非道徳的行為となる。
男が女をセックスの対象として眺めるのは許されても、その逆は許されない。
しかし、弥生時代のような母系的色彩の濃い社会ではそうではなかった。
女たちは男を値踏みしセックスがどんなふうかを想像しただろう。
そんなふうな視線で女たちから見られたことがある。
30代のころ、ムンバイ(ボンベイ)の南のほうで、現地で知り合った男性の日本人旅行者といっしょに、
2日に1本のローカル線に乗った。
ひとつのコンパートメントにぼくと同年代の現地人女性が3人乗りあわせた。
言葉によるコミュニーケーションに難儀した。でも彼女たちの視線や態度は、父系社会の男たちが、
女を値踏みして口説こうとするのと同じだった。
彼女たちはカースト的にあまり上位ではないサリーを来て、まあまあ美人揃い、
捕って食われるような視線を注がれるというのは、自分が女になったようで、
次元の違う世界に滑り込んだかのようだった。
そんなわけで弥生時代の女や男たちは現代人と同じ感性で暮らしていなかったと思っている。

(写真はチベット密教の原初仏・法身普賢。知恵と方便の合一=大楽・覚醒という図式は、
母系的概念を知らないと理解できない)
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弥生時代の呪術に勾玉文化の背景をよむ(4)  08:16
日本ヒスイの本
<勾玉と弥生時代の呪術・8> 
弥生の呪術や神話など、精神世界に興味をだいてもそれらを解説した資料は少ない。
勾玉や管玉を弥生の人たちの精神宇宙のどこに位置付けたらいいのかわからない。
古代の文献資料では『魏志倭人伝』に短い記事がある。
ここで語られる邪馬台国が北部九州の一地方を指しているのか、
初期大和王朝の舞台となった奈良を指しているのか、どちらを選ぶかで、弥生の地理は変わってくる。
弥生時代の精神世界をさぐるひとつの可能性として雲南省周辺に残る少数民族の民俗を参考にする
という方法がある。いまの地図で浙江省から福建省の海岸よりの、かつて百越とよばれた土地の倭人が、
杭州あたりから直接、あるいは山東半島や朝鮮半島に移民して後、日本列島に水田稲作を運んできた。
同じ倭人たちが江南の動乱を逃れて雲南に移った。
だから雲南の少数民族と弥生人は兄弟のような関係にある。
長江の古代文明や雲南を知れば日本のことが見えてくる。
母系社会・鳥居・高床式建築・村の結界・歌垣・系譜の重視など、
日本の古代との共通した項目にそういうのがある。


<勾玉と弥生時代の呪術・9> 
原始的な世界観では、すべては向こう側・精霊たちの世界からもたらされた。
木の実・草の根採集、昆虫など小動物の採集、魚や獣の捕獲など、
獲物に恵まれるか否かは向こう側次第だった。
だから向こう側とつながる呪術が生活のすべてに優先した。
こうした背景のもと、農耕呪術は狩猟採集時代の採集のための呪術から発展していった。
採集地は女たちのものだったので、農地の管理も女たちが行った。農耕呪術もまた女たちの呪術だった。
そういうことを前著『日本ヒスイの本』(北出幸男、青弓社)に書いた。
農具が発達し、収穫量が増え、農業が割のいい仕事になると、男たちも農業に従事するようになった。
女たちは年中子育てするか妊娠しているかで思うように働けない。男たちは体格もよく体力もある。
やがて農業の主導権を握るようになり、男の司祭が農耕呪術を差配するようになった。
そうやって土地をめぐって殺しあうようになった。動物学的に旧石器時代をおおむね正常とするなら、
新石器時代に人類は狂いはじめ、鉄器を持つことで歯止めがきかなくなり、
ついには原子爆弾の発明にいたった。
弥生時代は女の呪術全盛期で男たちの暴力志向がそれに重なった時代だった。
女たちは呪術によって田畑の実りを願い、家屋敷の平安と家族の安泰を願った。
戦前まで列島各地に残っていたという「妹の力」は弥生時代の名残と思う。
こういう社会では、現代社会で男たちが女を値踏みするように、女たちも男を品定めしたことだろう。

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弥生時代の呪術に勾玉文化の背景をよむ(3)  08:17
水晶勾玉
<勾玉と弥生時代の呪術・6> 
子供の頃、家の近所の橋や川や火の見櫓やお寺が自分たちの領土・縄張りの境界になっていて、
そこから向こうに行くときには緊張した。境界の向こうは敵の領土であり異界だった。
こういう縄張り意識は原人とか猿人よりももっと古い時代、原初の哺乳類や爬虫類の時代に培われ、
DNAに焼きつけられた。弥生時代の環濠集落や高地性住居遺跡は、農耕の民であるがゆえに、
境界を過剰に意識せざるをえなかった人々の、自己防衛のありさまを残している。
近隣村落との闘争、侵略、略奪、殺戮、住民の捕獲と奴隷化といったことが飢饉の年には繰り返された。
これではあまりにロスが多いということで村同士が協議して首長を置くようになり、
そこから、邪馬台国のような小さなクニが生まれ、豪族が育っていった。
面倒みのよさで酋長や首長に選ばれた男は、権力を手にすると支配者となり、
民を搾取し支配下におくようになった。「徳」が為政者の資質とされるのはもっとあとの時代の話だ。
この時代人々がもっとも頼りにしたのは死後に祖霊となった英雄・偉人・呪術師の声を聞くことだった、
と思っている。こうした文化の推移のなかで勾玉がブームになって列島に拡散していった。016


<勾玉と弥生時代の呪術・7> 
断定できるほどの知識がないが「天国」の発想は、中近東におきて、
仏教に習合して阿弥陀如来信仰となって東洋に運び込まれたと思っている。多分ヘレニズム以降のことだ。
たとえばヒンドゥーの聖典ヴァカバットギータにはクリシュナ(ビシュヌ)への帰依が説かれるが、
ビシュヌ神への帰一は梵我一如と同じで、至高神が天国を用意してくれるわけではない。
弥生時代には天国地獄はなかった。高天が原は「常世」だったかもしれないが天国ではない。
人間はそこに生まれ変われない。国津神はずーっと地上にいて、死ねば根の国に降りた。
弥生時代の死生観では死んじゃったらもう仕方がない、そんなふうだった。
死者には死者の村があり、そこで死者たちはこちら側にいるのと同じように暮らした。
死者なんだから死者の村は地味で静かで寂しげだったことだろう。
強力な首長や英雄、呪術師は別で、死後にも彼らは同族を守護するよう求められた。
くっきりと死にきってさまよったりせず、子孫を見守るのが彼らの勤めだった。
勾玉や辰砂を副葬した彼らの墓には、生者たちのそういう思いが込められている。
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弥生時代の呪術に勾玉文化の背景をよむ(2) 09:59
日本翡翠大珠
日本翡翠本勾玉

<勾玉と弥生時代の呪術・3> 
弥生人が到来しはじめたころの列島では縄文人が絶滅しかけていたようだ。
縄文中期をピークに気候は寒冷化していった。
おもに東日本では栗など木の実の収穫が減って大集落を維持できなくなっていた。
縄文人は里山暮らしが基本だった。川があり、海が近ければなおよかった。
寒冷化したことで海岸線が遠のき、途中には役立たずの湿地がふえるばかりだった。
平野の湿地は水田稲作の適地で弥生人には好都合だった。
新たな入植の民と山辺をよりどころとする旧来の民との間に、
ウエストサイドストーリーがあったとは考えにくい。
弥生人が水田稲作の実習生として縄文人を雇ったということもなさそうだ。
縄文人の痕跡は現代人のDNAでは10%程度だという。
日本神話の天津神を弥生人と見て、国津神を縄文人と見るような見方があるが、
縄文人は後続の文化にさほどの影響力を残さなかったように思う。
そのなかで、翡翠が弥生人に継承された。
大珠は姿を消し、稚拙だった勾玉は洗練された形になって、古墳時代へと継がれていった。
石の魔力が人種を問わずに人の心を掴んだせいであるようだ。5-18-2 11


<勾玉と弥生時代の呪術・4>  
私たちのDNAの1割が縄文人由来とするなら、9割は弥生人で血筋は大陸由来ということになる。
長く見積もって3千年、その間に長江下流域や南シナ海沿いの大陸沿岸、山東半島、
朝鮮半島から弥生のご先祖たちが日本列島にやってきた。台湾から琉球の島伝いという道もあったし、
シベリア系の移民がいまの北朝鮮を経たりオホーツク海を南下したりして到来したということもあっただろう。
人間が移民してきたのだから呪術もいっしょにやってきた。
断定はできないが北方系では脱魂して向こう側を旅するのを得意とする。
南方系では向こう側の霊が呪術師や霊媒に憑く。
たいがいの文化では呪術師は霊能力の開発・安定のために修行して、通過儀礼を経て一人前になる。
たとえばアメリカ・インディアンのビジョン・クエストのような行法が弥生時代にもあったことだろう。
山中で数日間断食断眠して、意識朦朧のうちに祖霊や精霊の来訪を待つ。
そうやって岩や樹木、洞窟が特定の霊や宿る場所になった。
あるいは守護霊に勾玉に居着いてもらうよう願う呪術があったかもしれない。
修験道のなかにはそういった古い時代の記憶が残っていると思う。 6-18-4 369


<勾玉と弥生時代の呪術・5>  
資料がひとつしかなく古いのが難だが、『日本二千年の人口史』(鬼頭宏、PHP研究所、1983)には、
縄文時代の北海道と沖縄を除く列島の推定人口として、中期(5千−4千年前)で約26万人、
後期(4千−3千年前)で約16万人の数字がある。しかも東日本と西日本では人口差が大きく、
西日本には全人口の1割程度しか住んでいなかった。
ものすごく大ざっぱに琵琶湖で線引きすると九州四国を含む西日本全域で、
縄文後期には2万人弱の人口しかなかったことになる。
どの程度信頼していいのかわからないところがあるが、これでは南米の最南端フェゴ島の先住民なみに、
縄文人は消えていった民だと思えてくる。
現代の日本列島の民はこの3千年ほどの間に到来した新規の移民が祖先である可能性も高くなる。
岡本太郎などが称揚して縄文時代ブームがおきたが、縄文時代と弥生時代の間には、
アメリカ先住民とヨーロッパからの移民の関係に似た断絶がある。
弥生の宗教や呪術を探るには縄文時代の延長線に立つのではなく、
長江下流域の百越やシベリア先住民に根っこがある。
それでも縄文のご先祖たちは1万年以上の長きに渡って列島に暮らした。
彼らの思いが里山のあちこちに染みついてもいる。
016
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弥生時代の呪術に勾玉文化の背景をよむ(1) 10:36
勾玉ネックレス
<勾玉と弥生時代の呪術・1> 
修験道は弥生から古墳時代を通じての原始的神道に、道教や新来の仏教が混交して生まれた。
元祖に祭り上げられている役行者(えんのぎょうじゃ)は聖徳太子より少しあとの時代の人だが、
仙人のような衣装を着た姿で彫像されている。
仏教的な用語を全部外して修験道をみると、
難行苦行は世界各地のシャーマンの通過儀礼と同質のものであることがわかる。
人類は精神的な歴史のどこかで、祖霊たちが暮らす向こう側世界からの言葉による助言を
必要とするようになった。仲介者が必要になり、
シャーマン(呪術師)という特殊な能力者が養成されていった。
シャーマンとなって向こう側へ旅したり、祖霊たちと交わり、
託宣をえるためにはこちら側の日常的意識を遠離して、向こう側へと自分を開いていかなくてはならない。
そのために必要となったのが難行苦行だった。
修験の荒行は発端を弥生時代の呪術師たちの通過儀礼にさかのぼることができる。
勾玉を商っている自分としては、弥生時代のご先祖たち、勾玉を祖霊の宿りとみて、
最高の神具として愛玩した人たちの精神世界に近寄れたらと願っている。7-18-6(水晶勾玉ネックレス)


<勾玉と弥生時代の呪術・2> 
教科書的古代史では縄文・弥生時代を原始人のごとくに扱う。
出土品の写真を見せてあの野蛮人たちにこんな技術があったと驚き、
なんらかの宗教的儀式があったもようだなどと解説する。
無知蒙昧さは現代人の古代観にある。
水田稲作は紀元前500年頃九州に伝来したとされてきた。
最近の学説では紀元前1000年とさらに古くなっている。
紀元前1000年は中国大陸では「周」の時代、老子が政治の理想とした時代だ。
紀元前500年前は西周が滅びて、春秋戦国時代の真っ直中。
黄河中流域では漢字を使いこなせていたし鉄器も普及しはじめていた。
こういう時代に中国大陸沿岸部や朝鮮半島の住民の一部が稲籾をたずさえて、
一族とか村落単位で列島に移住してきた。
彼らは漁労や交易に重きをおく海洋民族(海人)だったようで、内陸の農耕民が主流だったわけではない。
日本への水田稲作の伝来は幼稚な原始農業だったわけでもない。
大陸で稲作が開始されてからそれまでに5千年間ほど経っている。
大陸由来のシャーマニズムもまた、稲作といっしょに渡ってきて、原初の神道へと育っていった。
これが修験道に温存されているようにみえる。


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日本翡翠情報センターHP「玉と翡翠」のページを更新  10:33
白玉
<日本翡翠情報センター>HP「玉と翡翠」のページを更新しました。
長く放置したままで気になっていたのですが、
このたびやっと、写真15点と原稿を加えて、ページを埋めることができました。
日本の神話伝説には正体や素材がはっきりしないたくさんの「玉(たま)」がでてきます。
それと同じで中華4千年(殷あたりから数えて)の歴史をつうじて宝物として扱われてきた玉(ぎょく)も、
日本人には理解しがたいままになっています。玉(ぎょく)は宝石という意味で、
透明宝石をありがたがった西欧に対して、中国では半透明で人肌に似た繊細緻密な鉱物が好まれてきました。
至高の玉とされてきたのが白玉(はくぎょく)で鉱物的には白色のネフライトをさします。
ミャンマー産翡翠を中国人が知ったのは18世紀以降のことで、翡翠も玉の仲間入りをして、
白玉と同じ地位をしめるようになりました。日本ではなかなか白玉に親しむ機会がありません。


<日本翡翠情報センター>HP「玉と翡翠」の更新に関連して、
ネフライト系の玉(ぎょく)について、もう少し話を進めたいが日本では、
白玉(はくぎょく)や古来からの玉彫刻に関心を持つ人はまれだ。
けれど中華文化圏では復古趣味もあって玉製品に注がれる視線がさめることはない。
鎌倉から江戸時代にかけて玉(ぎょく)を輸入する機会はいくらでもあっただろうに、
知識人たちは山水画や書に夢中になっても石製品に眼がいくことはなかった。
彼らは石を見ることを知らなかった。その影響が今日にもつづいている。
中国では白玉専門のオークション・カタログが発行されている。
香港ではササビーズやクリスティーズといった大手オークション会社が玉専門のカタログを発行している。
ぼく自身は香港の博物館で2度3度と白玉製品を見るうちに白い魔力を知った。
羊の脂味といわれる白くて半透明の色合いはながめるほどに官能的で、
向こう側へと運ばれていく感触がある。5-18-2


★6/03<日本翡翠情報センター>(玉・ネフライトと翡翠・ジェダイト)
鉱物学はわからないことだらけであるけれど、熱水の温度の関係で、
水晶の結晶が顕微鏡サイズに極微となって集積するとメノウとなるように、
ネフライト(軟玉翡翠)はトレモライト(透閃石)やアクチノライト(透緑閃石、緑閃石)の
極微の結晶からなっている。鉱物として産出するアクチノライトの多くは針状、
またはシャープペンシルの芯のような極細の棒状結晶が多数集って塊状となっている。
日本翡翠の原産地糸魚川地方でも採集できる。
ミネラルショーなどで長い間探してきたけれどトレモライトの純白針状ないし
極細棒状の結晶は見つけられないでいる。
液体のなかから固体である結晶ができてくることを析出という。
温度や圧力など、それぞれの鉱物の析出の条件があるのだけれど、
専門的に勉強しないと知ることができない。
それに角閃石は分類があまりに多彩でシロウトには全貌を理解できない。
それでも大きな神秘と驚異がネフライトやジェダイトにはある。

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大きな翡翠原石から強力パワーがにじみでる ■日本翡翠原石(糸魚川翡翠)の写真 08:43
日本翡翠原石
<大きな翡翠原石> 
34キロの日本翡翠原石を撮影した。
宅配便のドライバーは50キロほどをひょいひょいと運んでいくけれど、
錆びた身体ではそうもいかない。
えんやこらどっこいしょと原石に取り組み、ついにはふたりがかりで撮影台に運んだ。
撮影ということになると、品定めするのとは異なる視点からに石に向かうことになる。
ポートレートを撮るように、右を見たり左を見たり、
斜め上とか下のほうから被写体を眺めて、きれいな顔を探す、
そうこうしているうちにそれまで気付けなかった石の顔と対面する。
ある瞬間、石たちのなかに埋もれていたパワーがスパッとあらわになることもある。
この34キロの翡翠原石のなかには、
雑木が茂った古墳ほどの大きさの丘陵ひとつ分ほどの意志が埋もれていた。
34.4kg,350x320x140mm,切ると相当に質の高い製品が作れるもよう。


<大きな翡翠原石> 
うちで扱っている日本翡翠原石は新潟県と富山県の県境地帯、糸魚川地方で採集された。
だから糸魚川翡翠というようにコシヒカリやトチオトメみたいなブランド名でよばれたりしている。
マニアになると、収集地の地名や河川の支流名にこだわり、
入りコン沢、ヨシオ、金山谷(きんざんだに)、横川、大所川、青海川と産地の特定に熱意をそそぐ。
ぼくの場合はなにごとによらずマニアになりきれないでいる。
あまりこちら側のことに執心できないので、しかたがないことと思っている。
産地へのこだわりもさほどないのだが、この原石は購入時にヨシオのラベンダーときかされた。
ヨシオ滝は小滝川の天然記念物指定地域よりさらに上流にあって、
現在は翡翠原石の採集はもとより入山も禁止になっている。
かつて原石の盗難騒ぎがあったせいという。
この34キロで濃紺色のくっきりとした斑模様が入った原石は、
いまとなっては博物館クラスのおおもので、とても貴重だ。
刻んでしまうのがもったいないことではある。


<大きな翡翠原石>  
34キロの翡翠原石があまりに立派だったので調子づいて他の大きな原石も撮影してみた。
どれもが加工用に保管してあるものだ。
うちで扱っている日本翡翠原石(糸魚川翡翠)は、糸魚川市内の業者から仕入れたものと、
プロ級のジェードハンターから買い入れたものとに大別出来る。
前者のなかには30年以上前に最終されて業者や収集家の間を巡ってきたものがある。
後者のなかには購入した時点で、姫川支流の河原で採集されたばかりのものもある。
河原や渓谷での採集は禁止地帯を除けば、重機を用いず、
手で運べるものであれば一応は黙認ということになっている。
それでも、河原で探石しているのを地元の見回りに見咎められてトラブったという話も聞いている。
地元の人たちにとって県外から雑多な人たちがきて、
縄張りを荒らされるのは当然楽しいことではない。
おまけに町から田舎へ行く人たちは、田舎ではなにをやっても許されると思っているふしがある。
うちの倉庫近辺でも同じことだが、町からくる人たちは好き勝手な場所に車をとめ、
垣根がないことを幸いに他人の庭に入り込んで野草を抜いていく。
彼らに好意など持ちようがない。
ジェードハンター初心者は河原に近付かないほうが無難だ。
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ニギハヤヒの十種神宝と死者を蘇生させる超絶の玉・3 22:35
十種の神宝図
紅白の勾玉
写真上は子之神社(神奈川県足柄下郡湯河原町)に伝わる十種の神宝図(部分)、
下は赤メノウとオパーライトの紅白の勾玉。
紅白の勾玉は筆者の想像で上の図象と直接の関係はない。



<十種の神宝・7> 
以前にある修験の修行者のところで、
霊媒に役行者の霊が降りるのを見せてもらったことがある。
霊媒は30代の小太りの女性だった。彼女が身体を左右に小刻みにゆすった。
正座した膝が床を離れるほど激しく震えて、忽然と居住まいを正した。
武士の気配が満ちた。そうやって彼女は男の声で話しはじめた。
映画の一場面を見ているようだった。
ニギハヤヒの「ひふみ祝詞」のことを考えていて、こういうことを思い出した。
あとになって神懸かった人たちをバリ島やインドでも見たが、初体験の印象は強烈だった。
「ふるえ、ふるえ、ゆらゆらふるえ」は一には玉(勾玉)を振る、
二には魂をふる(魂振り)、三には身体を振ることともとれる。
身体を振るのはゆすったり回転したり舞ったりする所作を含む。
身体を開くことで向こう側のパワーを受ける身体環境が整っていく。


<十種の神宝・8> 
「ふるえ、ふるえ、ゆらゆらふるえ」と繰り返すと。
恐山のイタコが死霊をよぶようなおそろしさがわいてくる。
ふるえふるえる波動のうちに神霊・祖霊が降りてきて形をなす。
気のゆるみをついて邪霊もやってくるので、
祈祷には「場」の浄化と我が身我が心の潔斎が欠かせない。
意識が変性して向こう側へと調律された状態では
あらゆるものが振動のうちにあることがわかる。
十分に気持ちを落ち着けてから、焦点を合わせないように風景を見ても、
世界がこまやかに振動している様を見てとれる。
波動はものごとに内在するパワーであり、「質」の良否を決める。
近代合理主義的な論理に洗脳された頭ではこうしたことを理解しづらいが、
100年ほど前までは、世の中の人たちみんなが、
この世は波動の縦糸横糸に織りなされた「模様」であることを知っていた。
世界がしんしんとふるえふるえているなかで玉を振る。
魂(たま)は共振して、
革袋にいれた酒が振られることで美酒となるように元気に成長していく。
美しい勾玉と親しむとそういうことがわかるようになる。


<十種の神宝・9> 
ニギハヤヒの十種の神宝の図象が以外なところに埋もれていた。
隣の家を訪ねたら探していた掛け軸がかかっていた、というような出来事だった。
インターネットのなかに「子之神社(古神道本宮奥の院、関東最古・子授け子育ての神)」
のホームページがある。神奈川県足柄下郡湯河原町に鎮座する古くからの神社で、
幾分かお付き合いさせてもらっている。
HPの「祈祷・祈願案内」に移行して、「霊宝・十種の神寶の図」を見つけた。
足玉には上父、道反玉は母下との添え書きがある。
古い時代には男の精液の一滴を母の血で養うことで胎児は成長すると考えられていた。
精液は脊髄で作られる生命の種子だった。
だから古代中国やインドでは精液の浪費は骨髄の枯渇、
老衰を促進すると考えられるようになった。
またここから男は白、女は赤の色彩象徴が編まれた。
ニギハヤヒの時代を想定するなら足玉は白、道反玉は赤の勾玉ということになる。
子之神社第72世宮司の穂積天佑氏におうかがいすると、
「十種神宝の祈願」はいまでも効力の強い祈祷法とのことだった。
紅白の勾玉と十種の神宝との結びつきはは筆者の想像によるものだが、
縁起のよさ極上。新しい年の大願成就につながりそうだ。

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ニギハヤヒの十種神宝と死者を蘇生させる超絶の玉・2  21:52
日本翡翠飛龍
<十種の神宝・4> 
\原漫覆いたま)は病気治癒のための癒しにもちいる。
∋猗振漫覆靴えしたま)は長寿を願う祈祷にもちいられたと推察できます。
B玉(たるたま)は財産の確保に、
て使振漫覆舛えしたま)は文字から推理すると呪いの防御・呪い返しにもちいられたようです。
目的に応じてこれらの呪具を手に、
「ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここの・とう」と数えて、
「ふるえ・ゆらゆらとふるえ」ととなえて、揺り動かすなら、
死者をも蘇生させられると伝えられています。
これらは「布瑠の言(ふるのこと)」、「ひふみ祝詞」とか「ひふみ神言」
といわれていますが、勾玉に関連した古代呪術の片鱗に触れられる思いがします。
数をかぞえること、揺らすこと、振動を与えることは
パワーの世界を招く人類共通の感性のようです。この類いの発想では、
病人の写真の上でペンジュラムの要領で勾玉を振ると遠隔治療もできることになります。


<十種の神宝・5> 
ニギハヤヒの4種の宝玉は時代から想定するなら日本翡翠の勾玉です。
『先代旧事本紀』が編まれた平安時代初期の人たちのことを考えると、
彼らは勾玉も翡翠も知らなかった人たちで、もとの神話では勾玉であっても、
宝玉は不老不死の霊薬同様、
形の定かでない神話的な存在になっていたということになります。
振るというのは単純に考えてペンダントかネックレス状のものを振ったのでしょう
(両手に包んで回したのかも)。
大祓にもちいるような人型に切った紙にクライアントの氏名を墨書して、
その上に宝珠をかざして、ペンジュラム占いするように
宝珠が円を描いて振れるにまかせると、神道の呪術っぽくなります。
さ庭に酒や管玉、麻の布を供え、勾玉を振って、願うところのことを、
恐れおおいことと畏怖しながら畏みかしこみ申し上げる。
そうやって祖霊の力は勾玉を介して向こう側からこちら側へ降ろされたように思えます。


<十種の神宝・6> 
くわしくは拙著『日本ヒスイの本・最高のパワーストーン』
(北出幸男、青弓社、2016)の176ページにありますが、
玉が若返りの霊薬であったと信仰されていた様子が万葉集にみてとれます。
「沼名川の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも 
あたらしき君の 老ゆらくおしも」。
「ヌナカワの底にあるという玉はお金で買えるものだろうか、
探しにいけば拾えるものだろうか、
このうえなく立派なわが君が老いていくのが惜しくてならない」。
ヌナカワを現在の糸魚川市の姫川に同定して玉を翡翠とする意見がありますが、
万葉の歌人たちにとっては翡翠勾玉は忘れられていました。
古代中国の神仙術では玉(ぎょく、ネフライト)は仙人になる霊薬として煎じたり、
粉末にして服用したりしていました。
翡翠勾玉のおぼろな伝承と中国の玉伝説が混同されてこの歌ができています。
翡翠勾玉は古墳時代までは単なるアクセサリーではないのは勿論のこと、
護符を超えてより呪術的な使用法があったことだろうと考えるこのごろです。
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