良寛のことを忘れないで暮らしてきた■黒水晶クラスターの写真 | 11:11 |
良寛は墨染めの衣、背が高く痩せていて、
ユダヤかアラブかそういった人種の面影がある。
良寛が歩くと黒水晶が人を模倣しているように見える。
長い間気掛かりだった良寛についてやっと少し書ける時間ができた。
以前に読んだ何冊もの資料のことを忘れているし、
原稿をつづける余裕もすぐになくなるもようだ。
良寛は江戸時代の末期に新潟県に暮らした禅僧・歌人・書家。花鳥風月をめで清貧に甘んじ、
子供と遊ぶのが好きだった。山寺の和尚さんのような面影は日本人の理想のように思われている。
彼は18歳で家出して、22歳の時国仙という禅僧に出会い出家得度して仏門に入った。
師匠について倉敷の円通寺という寺で34歳まで12年間修行の日々をおくった。
師匠の他界を機に寺を出て、雲水として諸国を流浪。父親の入水自殺を知って故郷にもどった。
39歳から59歳までの約20年間を地元の寺の五合庵という名の庵(いおり)に暮らした。
歌人・書家として著名人となったが、生計は托鉢でまかなった。
この間に地方の名家だった実家は没落していった。
59歳のとき五合庵を去り里に近い乙子神社の境内の小屋に移り、
69歳のとき近隣の木村家の離れに移った。
この年良寛は40歳年下の美貌の尼・貞心尼と出会い、恋におちた。
世の老人たちがうらやむ出来事だが、良寛は有名人で学識があり才能豊かなればこそのことだった。
その後、73歳で貞心尼や実弟に見守られて他界した。
良寛の歌をわけもなく好きになって、良寛は禅僧として悟り体験をしたのか否かが気になった。
それで目下は『ヨーガスートラ』を再読したり、
呼吸法を練習したりして、良寛を追体験しようとしている。
個人的な感想としては良寛にドラマチックな悟り体験はなかった模様だ。
円通寺の修行時代に師匠から印可されたのは、師匠が死ぬ間際になってからのことで、
この印可は慈愛の発露の雰囲気がある。
良寛は衣鉢を継がず、雲水として生きるようはげましの杖を授かった。
没落していく実家の行く末を見届けたい思いで良寛は故郷に帰った。
そのあたりで道元が説く、雪の朝に青竹が割れる音で大悟するというような
悟りを諦めたように思える。
瞑想は型に流れやすく、ひとつの山の頂を極めることができても、
そこから虚空へと意識をジャンプさせるのは運任せのようなこところがある。
意識を静慮できても、ヨーガ的意味で三昧に至るのは、
自分の意識・意欲だけではどうにもならない。
とくに日本の禅のように只管打座して数息観に頼る瞑想法では神秘的体験は難しい。
読経三昧であっても脳内麻薬の分泌を刺激するだけでおわりやすい。
良寛は欲を遠離する忍辱の技をおさめ、精神の静逸さを求め、
周囲の自然に自我を拡張していくことで大きなものとひとつになることを体験していった。
彼には社会的に適応しにくい発達障害のようなところがあって、
家業を離れてヒッピーとして暮らさざるをえなかったように見える。
良寛を思うと、35歳や55歳の自分がかつていたように、それぞれの年代の良寛が見えてくる。
どの良寛にも親しみを覚えて、他人ごとという感じがしない。