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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 4/11−15 2018 10:19
ヘキ
★4/11<過ぎてゆく日々のこと> 
山の家の裏山を見上げると、初夏のような陽気のもとで緑の熾火がバチバチと燃えていた。
息を呑んで見入って、こんなに美しい新緑は見たことがないと思った。
スカイラインが白く輝き雲のない空はいよいよ青かった。
空からパワーがにじみ出てくる気配に、完璧の「璧・ヘキ」は天空への通路だけではなく、
天のパワーが地へと降りてくる通路でもあることに気付いた。
シヴァ神はリンガヨニの図象に象徴される。
男性性と女性性・精神原理と物質原理の合一を表わしていて、
リンガヨニがあるところそれその位置が宇宙の中心になる。
璧もまたどこにあっても宇宙の中心の孔となり、パワーは璧を中継機に地に降り、人に宿る。
シヴァ神が三日月に蓄える神酒ソーマが霧となって大地を覆うように
孔から漏れでたパワーは極微の電磁波となって皮膚から内側に入ってくる。 3-18-2


光明のヤントラ
★4/13<気になる話> 
ヤントラついでにこれは光明のヤントラ。
パワーが燃える、パワーの位相があがって活動性を高めるとき光があらわれる。
禅は悟り体験がどのようなものであるかを明示しない。
弟子が師匠にこういう体験をしましたと報告する。
師匠が吟味して悟りと認めるなら認可されて、その師匠の系譜につながることになる。
けれど師匠が悟りを知らないと認可は形式的なものになっていく。
明治時代以降の風習のように父親が息子に寺院を継がせるようになると、
悟りよりも寺院経営のほうが重要になっていく場合もある。これはもうブッダの教えではない。
ヒンドゥー・タントリズムでは、身体が黄金の光で焼かれるような光明体験を悟りと結び付けてきた。
光明を見る練習をすれば、裏山で青竹が割れたり、深夜に水鳥が飛び立つなど、
予期せぬ衝撃に身体が打たれた瞬間、突然の光輝が身体を焼くというような体験が得られる。
そういうふうに語られてきた。


究極の実在のヤントラ
★4/15<過ぎてゆく日々のこと> 
ラブ・ディボーション・サレンダーと書いたって、古い話なのでうなづく人はひとりふたりしかいない。
サンタナやピンクフロイドが全盛だったころマハビシュヌオーケストラというロックグループがいて、
彼らの曲のひとつがこれだった。いまでも耳を澄ますと彼らの声が聞こえてくる。
「愛・献身・降伏」はインド人ならみんなが知っている、
神に対する気持ちの持ち方を象徴した言葉。
バクティヨーガといって神のもとで自己放棄して、なにもかもお任せする行法のスローガンでもある。
あれやこれやを理屈づけして自己を正当化したがる自我を捨てる、自分をとことん神にゆだねる。
そうすれば神と合一できる。
石たちを見るのに、わずかの片鱗でいいからラブ・ディボーション・サレンダーの気持ちになる。
見えない力の大きな意図が石にも宿っている。そういうのがそこはかとなくわかるようになると、
石たちは目覚め、生き生きと脈打つようになる。
ヨーガの思想では「愛・献身・降伏」の彼方に「サット・チット・アナンダ 
(純粋意識・究極の実在・歓喜)がある。
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 3/29-4/04 2018 10:30
チャート
3/29<過ぎてゆく日々のこと>(4月2日付けブログのつづき)
精神世界に興味を持つ。あるいはいやおうなく向こう側にいざなわれていく。
日常生活の現実味が希薄になり、もっと違うところに本物の生活があると思えたり、
なかには亡霊をみたり、霊界からの声が聞こえてくる人もいる。
気がふれたのかと心配になっても、まわりにわかってくれる人はいない。
この人ならと思っても方向違いだったりする。
理解されることの少ない精神的危機なので、スピリチュアル・エマジェンシーとよばれてきた。
困った状況だ。
こんなときは、自分が夢中になれそうな作家なり思想家・宗教家をひとりみつけて、
その人について書かれた本を手当たり次第によむ。何年かかけて全部読むつもりになる。
するとその人が守護霊みたいに自分の近くにいるのが感じられたり、
その人を仲介して神なり仏の波動を感じられたりするようになる。
自分の霊的レベルが向上すると、低次元なものどもをお断りする方法がわかってきて、
あまり悩まされなくなる。自分の思いに溺れているだけだと精神的な危機から抜けだせない。


3/30<過ぎてゆく日々のこと> 
スピリチュアル・エマージェンシーとか、人生の転換点にあるときは、
自分の魂を養うということを考える。
心は自然のまま、なりゆきまかせが正しい状態で、
心をコントロールするというのは洗脳と同じで危険なことだ、と考えている人たちがいる。
全然そうではない。心は知性によって調律されて健康になる。
身体に栄養が必要なように魂にも栄養が必要だ。
身体や肌をケアしたりトリートメントしたりシェイプアップしたりするように、
精神面での自分もケアしたりトリートメントしたりシェイプアップしたりすることを考える。
心だって風邪をひくこともあるので、そんなときは天然石と遊ぶなどして心をあったかくしてやる。
それから自分は自分の魂を養えているのだろうかと自問する。
目先の欲望、その日その日の思いいれに呑まれてしまうと、
野狐(ヤコ)や古ダヌキを神とあがめるような生き方をしなくてはならないことに気付ける。


4/04<過ぎてゆく日々のこと> 
渓流を挟んで隣家は工務店。主人が軽トラックに板材を積んでいた。
「暖かくなりましたね」ぼくはいう。
「いまの季節がいちばんいい」彼はいう。
「もう少しすれば山は緑一色になってしまう。でもいまは、こんなにいっぱいいろんな色があってきれいだ」。
梯子をかければ届きそうな距離に山は屏風になって天空をくぎっている。
いまを盛りと花をつけたヤマザクラが点在し、緑色系鉱物の表本箱をひろげたように、
そうでなければ日本の伝統色の色見本を開いたように若やいだ緑から老い松の濃い緑まで、
みどりが綾なし重なり攻めぎあっている。
春を無視してこつぜんとやってきた初夏の陽気に山の人たちは風景に酔っている。
(写真は糸魚川市姫川の河原で採集してきたチャートと思う。左右の約180mm。立派でたくましい)


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翡翠のドーナツに乗って天空彼方に舞いあがる  10:05
サーペンチン・ヘキ
<完璧の璧・4> 
話はもう一度飛ぶ。宮沢賢治が鉱物好きだったことをテーマに『宮沢賢治と天然石』
(北出幸男、青弓社、2010)という本を書いた。
このとき『銀河鉄道の夜』が賢治版死者の書であることを知った。
天の川にそって北極星に向かう鉄道の旅は、水死した友人をあの世に送っていく死出の旅だった。
そうやって最後にジョバンニは天界のいただき近くに黒々とした頭陀袋を見る。
この頭陀袋は大空から天界に抜ける穴だ。賢治の別の物語では天井界の地面はラピスラズリでできている。
賢治の頭陀袋と馬王堆漢墓の帛画がひとつに結びついたとき、
璧(ヘキ)は天界に抜ける穴であることがわかった。
璧はモンゴルの民の移動式住居・パオのように真ん中に穴のあいた天蓋のミニチュアだった。
これなら璧が天を祀るのはいうまでもない。
『銀河鉄道の夜』と漢墓の帛画の宇宙はともに三層からなっている。
地上世界と大空の上にある天空、さらにその上に太陽と月がある天帝の世界がある。
賢治は熱心な法華経信者だった。彼の釈迦牟尼は天の頭陀袋の向こうにいたのだろう。
帛画もまた死者が現世を離れて天国に行くよう導くが、天帝のもとへ死者は昇っていけない。


ヘキ
<完璧の璧・5> 
1ヶ月ほど前知人と夕食をともにした。
璧(へき)が天空に抜ける孔だといっても、馬王堆漢墓の帛画の写真は手元になく、
意見をうまく伝えられなかった。
小さなものは直径5センチ前後、中央に孔のあいたドーナツ状の円盤が、
なぜ天空の象徴になるのか説明するのは難しい。それがつい3、4日前のことだった。
『世界お守り大全 BODY GUARDS』(デズモンド・モリス、鏡リュウジ監訳、東洋書林、2001)
という大判の本に璧が掲載されていたことを思い出した。
デズモンド・モリスといえば『裸のサル』にはじまり、『人間動物園』『マンウォッチング』とつづいて、
ぼくにとっては偉大な先達だ。その彼がなぜお守り世界に手を伸ばしたんだろうと思っただけで、
詳しく中を見ていなかった。あらためて本を開くと、
璧には「聖なる円盤、ピ・ディスク THE PI DISC」の見出しがあって、
しっかりと璧は天の象徴であり、中央の孔は天にぬける通路だと書いてあった。


ミズチとヘキ
<完璧の璧・6> 
『世界お守り大全』には以下のようにある。
「ピ・ディスクは中国の天の象徴で、いかなる困難からも守ってくれると説明される。
もし何事か起こりそうだと思ったら、自分自身を守るために円盤を指でこする。
危険が去ってしまうまでこすりつづけるのだ」
「西欧人の眼で見ると、真ん中に開いた穴をもって天国を想起するなど、しごく奇妙に思える。
『この円の穴は超越へとつづく道を表わしている』というのが公式的な見解である。
言いかえれば、この平らな円盤の中央の穴を通り抜けて天へ昇るのだ。
円盤の形を一心に凝視すれば、自分自身が穴を通り抜け空高く吸い込まれるさまを想起できるだろう」
「今日、これらの円盤はその高度な役割を失い、人気のある幸運のお守りのレベルに身を落としているが、
単純さがかえって神秘性を与えて、それらに触れる誰でもがそれを忘れられないようになっている」p142。
これらを読んで「璧の孔」をめぐって3回くらい転生してきた気分になった。


<完璧の璧・7> 
陰陽和合の視点からみるなら、キリストがはりつけにされた十字架と、神社マークと、
太乙(太極)のシンボルマークと六芒星は同じことを象徴する。
このことがわかるなら「璧(ヘキ)」はシュリヤントラやリンガヨニやタットワカードと同じであり、
勾玉二つを和合の形に並べたのと同じであり、
「トンネルをくぐって広場にでる」「エレベーターで地底に降りる」瞑想法や、
密教の「ア字観」とも同じであり、璧の孔はおそらく縄文時代の呪具・
大珠(タイシュ)の孔と同じであることがわかる。
知性化されて以来人類はかたときも休むことなく、大空の彼方にある向こう側にあこがれてきた。
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翡翠のドーナツが幸運獲得パワーを運んでくる 10:08
玉壁
<完璧の璧・1> 
中国製の翡翠ペンダントで一番人気は布袋和尚、〈気〉が充満したメタボ腹に豪快な笑顔、
日本人の自分にしてみれば、あれで弥勒菩薩の生まれ変わりとはどういう感性だと首をかしげる。
2番人気は真ん中に孔のあいたドーナツ状の円盤で、
これまた日本人の自分にはうまく発音できないが「PI(ピィッ)」という。
平安を心に留め置く形で「平安扣(こう)」ともいうらしい。
歴史的には「璧(へき)」という字が当てられてきた。
完璧の璧である(完璧は無敵の壁・カベではない)。
この形はおよそ5千年ほど前の長江下流域の良渚という古代文明で発案された。
璧・ソウ(王へんに宗)・鉞(えつ、まさかり)の三種の玉器は聖別されて、
宗教・政治(財政)・軍事力の三権を象徴した。良渚が滅亡した後、
璧やソウは黄河流域の古代文明に運ばれて、貴族の身分証明の品となり、
神事に用いられて「璧は天を祀りソウは地を祀る」とされた。
ソウは女性器の象徴とみえなくもないので、これが地を象徴することはたやすく理解できる。
しかしどうして円盤である璧が天を象徴するのかよくわからなかった。 2-2018-1 701 


漢墓ハクガ
<完璧の璧・2> 
璧がなぜに天を象徴するのか、ヒントは漢の時代の絵画にあったのだが、
それに気付いたのはわりと最近のことだった。
年月の経つのは早くて、かれこれ10年ほど前のことになる。
ここだけは見ておかなくては、という気持ちになって、香港に行ったついでに
湖南省の長沙にある馬王堆漢墓という遺跡を訪ねた。
2100年前に葬られた宰相の妻が、ひからびもせず、腐りもせず、死亡時のままの姿で発掘されたことで有名だ。
興味の焦点は彼女の遺体の保存技術にあった。当然辰砂(丹生)が使われていたのだ。
そうしてそこで中国版死者の書とでもいうべき帛画を見た。
T字ののぼりのような形をしていて、発掘時には棺にかけられていたという。
この帛画の下3分の1ほどのところに大きな璧が描かれ、
2頭の大蛇が結ぶ付くようにして璧の孔を塞いでいた。(写真は湖南省博物館の図録から)


漢墓ハクガ
<完璧の璧・3> 
馬王堆漢墓の帛画は写真ではわかりづらい。自分の解説が的確なのかどうか心許ない。
画面は3本の横線で区切られ大別して4場面ある。
一番下は地下世界で大魚に乗った力士が地表を支えている。
インド神話で亀に乗る象が大地を支えるに似ている。
白描画をみると下から2番目の区画は地上界で、死者の葬儀の場面らしくご馳走が並べられている。
その上に飾り紐を左右にたらした「璧・へき」がある。
璧の孔が天界・霊界への通路であると想像できる。
周囲の怪獣は『山海経』に登場する霊獣という。
その上の天上界では死者が霊界の役人たちの出迎えを受けている。
さらにその上は霊界より上位の世界、天帝の領地で太陽のなかにはカラスがいる。
8つか9つの太陽がある。月にはガマガエル(ガマ財神)がいる。
湖南省博物館にあった出土品の璧は出来栄えがよくなかった。
前漢の時代、玉製璧はとんでもないほどの貴重品だったかもしれない。
白描画は『中国の伝承曼陀羅』(百田弥栄子、三弥井書店、1999)から転載。

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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ ・自己解放 3/27-30 2018 09:53
ネフライト
3/27<過ぎてゆく日々のこと> 
いろいろな悩みをかかえいろいろな苦しみのうちに人は暮らしている。
山の家にいく12時代のバスにのると途中からきまって乗ってくる女性がいる。
午前中パートタイムの仕事にでての帰りなんだろう。
化粧っ気がなく衣服への気配(きくば)りもない。美人でないので人目をひかない。
従姉妹に似ていたので気付くようになったが1万回顔を合わせても挨拶はしない。
途中で降りていく横顔や後ろ姿を見るだけのことだが、
彼女は生涯このかた一度も笑ったことがないようにみえる。
毎日がひたすらに辛そうにみえる。スーパーマーケットのビニール袋を下げているので、
彼女にも食べて寝て、その人なりのその他の時間を過ごす生活があることがわかる。
ひとつの思いにとらわれるとそこから抜けだすのが難しくなる。
ちょっと視線を変えるだけで状況が変わるとわかっていても、
習いしょうとなったことを止めるのは難しい。
いろいろな土地でいろいろな人たちを見てきた。そういう人たちを見るのと同じ目線で彼女を見て、
そういう人がいたことを忘れるのと同じように彼女を忘れる。


3/28<過ぎてゆく日々のこと> 
いろいろな思いに囚われて人は暮らしている。
前述したとおり、あるいはいつも書いているように、習いしょうとなったことから離れるのは難しい。
そんたときは自分の血筋の長さを考える。もしくは人類の数の多さを想像する。
弥生時代から数えても2500年。一世代25年として、約100世代、その末席に自分がいると思うと、
たいがいのことは小さくみえてくるし、生命がつづいていくことのドラマがすごいことのようにも思える。
自分という存在が人類の全体にとって60億分の1であるというのも相当にすごい。そんなふうに思う。
肩に乗る重苦しさや堪えることが大変な難事がたとえあっても、
たいしたことではないと思えることだろう。それがいっときの思いであっても、
そうした経験をするのとしないとでは大変なちがいだ。
そこからさらに、シャーマンの系譜につながっている自分を思う。
向こう側の見えない力に支えられ包まれている自分を感じる。
ただ生きてただ死んでいくのがいいと思えてくる。


3/30<過ぎてゆく日々のこと> 
ただ運がわるかったり、生き方に問題があって不本意な暮らしを余儀なくされている人たちがいる。
気が弱い、決断力や行動力にかける、痛手から立ちなおれない、などなど理由はさまざまなんだろう。
不本意さも貧しさだけではなくて、家庭環境の苦悩というのもある。
適応障害ゆえの生きていく大変さという別の問題がある。
同じように社会からの疎外感を感じる人たちのなかには、
少し前の時代ならシャーマン予備軍となったであろう人たちもいる。
精神世界のことどもとこちら側の日常生活は相容れないことが多い、
それゆえに向こう側へと意識が開かれていると、こちら側への適応が難しくなる。
これら3者は似ているが同じではない。
前2者についてはNPOなどをつくってこの問題に取り組んでいる人たちがいる。
けれど3番目の人たちは世間的な理解の埒外に置かれている。
こちら側の宗教は必ずしもスピリチュアルな道にそっているわけではなく、
信者の道はそれとは別ものであるし、衆知のように神道は気軽に自分を磨く場所ではないし、
僧侶たちは抹香臭く説教臭い。
自分が3番目だと思うなら、石たちから強く生きることを生ぶといい。
それは縄文スピリットを生きることでもある。
(写真は根性のすわった糸魚川産ネフライト原石、2940g 210mm。
黒色ネフライトは黒翡翠と、他の類似岩石との区別が難しい)
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 3/27-31 2018 10:10
土手の紅梅★3/27<過ぎてゆく日々のこと> 
小川の土手の紅梅は遠くから見ると紅色の綿菓子をまぶしたように見える。
よかった! 今年も咲いたんだと思う。
冬がおわって春が来る。冬が去っていくことの寂しさがある。
冷たく凍てついた静謐さはもう戻ってこない。
季節の巡りがうとましくて去年と同じ繰りかえしを堪えがたく思う。
けれどフキノトウを見て、住まいの近所の梅の花を見て、山の家に向かう道すがらの紅梅などを見ると、
見るごとに生命の不思議さと花たちのけなげさにうたれる。
走りよりすり寄って、おう、おう、今年も咲けてよかった、元気でよかったね、という気持ちになる。
山の家では紅梅の開花を合図に1週間、10日間ほどすると、桃の花が咲き、
ミツバツツジやヤマザクラがつづいて、短いひととき桃源郷のにぎわいとなる。


桜
★3/27<過ぎてゆく日々のこと>  
きのうは桜の花見。1年に1回の出来事でもふだんと変わらず、
ポットにコーヒーを詰めて、トレッキングシューズの紐をしめて出かける。
徒歩15分、丘の上へとのぼる途中に花見の公園がある
。曇り空のしたでは桜の花は霞か雲か、枝から枝へ天女の羽衣を引き渡しかのように見える。
西行の歌を思い、ついでに小野小町のことなど思った。
平安時代までくればメンタリティは現代人と変わらない。
彼らは現代の都市生活に順応していくだろうが、自閉的に暮らすんだろう。
駅の近くでお茶して、馴染みの花屋で都忘れの鉢植えを買ってかえった。
今年も花見ができてよかった。



★3/27<過ぎてゆく日々のこと> 
ゴミ出しに玄関に出る。朝の冷気に刺されて身体にカジュラホがよみがえる。
自分が死ぬとき意識に余裕があるのなら、
魂はインドのカジュラホに飛んでから死出の旅に出ると思っている。
自分にとってはあそこが宇宙の中心。
カジュラホにいたとき親しくなったホテルの支配人から、タントラ研究家という人を紹介してもらった。
彼は言った「池の中心に小石を落とすと、波紋がひろがっていく。
そういうふうにタントリックな宇宙はここから世界中にひろがっていく」。
ダイアモンドの鉱脈はマントルから一直線に伸びたマグマが固まってできる。
巨大な柱なのに単にパイプとよばれている。
カジュラホには村全体を包むほどに巨大な霊気のパイプがある。
虚空にむかってまっすぐにのびたその柱を、
気流に身を任せるコンドルのように魂は偉大なる「空」にむかってのぼっていく。


山桜
★3/31<過ぎてゆく日々のこと> 
街路樹の桜の花が散り始めると、
アパートの5階の窓からみる古墳もどきの丘陵で山桜が花をさかせる順番がまわってくる。
季節の巡りに順応した年ごとの律義さ。
その姿はもえ出たばかりの新芽が波打つ屏風画に描かれた薄桃色の珊瑚礁に見えなくもない。
しばらく風景をながめていると随所に鉱物の色を見定めることができるようになって、
樹木の緑は鉱物の色合いの模倣であると思ったりする。
ドングリの仲間の葉色が濃い常緑樹は、新緑色のかんらん岩に周囲をとりまかれたオンファサイト、
あるいはエクロジャイトといったところか。
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豪族のモグラ叩きと専制君主と三種神器の変移  11:50
ニュージェード勾玉
<過ぎてゆく日々のこと>
『先代旧事本紀』の現代訳はネットにある。
それを読みながら物部氏の没落について夢想していると、
世界各地の古代文明で似たような方法で歴史が推移していったことに気付く。
弥生から古墳時代への移行は支配体制の進化の歴史を見るようだ。
弥生の村は縄張り意識や飢饉の時の生存競争など、近隣どうしで奪いあい、殺しあった。
これではまずいというので調停者を選ぶようになった。
やがて調停者は地域のボスになり豪族に成長していく。
豪族をたばねるべく古代王朝が起きるのだが、当初は豪族たちが代表者を選ぶ合議制が敷かれた。
ここから専制君主が登場して独裁政治がはじまる。
日本では崇神天皇から応神天皇を経て天智・天武天皇へと至る過程で、
有力豪族がひとつまたひとつと潰されて、大王への権力の一極集中が進められていった。
天武天皇の時代、豪族は一掃されかわって政治家・高級官僚としての貴族が台頭していくことになる。
聖徳太子の時代の蘇我氏は豪族だったが、持統天皇時代以降の藤原一族は貴族だ。
こういう歴史経過のなかで3種神器は代表者に裁量権・権力をゆだねる証しの品だったものが、
専制君主の王位継承の品になっていった。
歴史経過はひとえに人類が富の蓄積に幻惑されたことによる。
写真はニュージェード38mm勾玉、¥4,000。好評発売中。 2-2018-1,637

★はじめは勾玉文化の衰退についての関心が大きかった。
古墳時代に何がおきたのか、応神天皇から継体天皇を経て、天武・持統天皇へと移っていく
時代の変化を追っていくと、古代中国やインド、ローマでも類似の変化があったことに気付いた。
現代という時代を新聞やテレビの論調とは異なる視点から眺められるようになる。


フキノトウ
<だぼらな話> 
うちの庭ではフキノトウといっしょに水晶もはえる。
こういうお家(うち)はあまりないのでは。
水晶が芽吹くと、1年間を生きながらえて再び新芽水晶を眺められてよかったと思う。
クマが玄関の靴箱の上からワープしてくる。
ウグイスの初鳴きと歩調をあわせるようにしてガビチョウも初鳴きする。
花壇で丸玉も発育中。
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魂振りと魂鎮めで邪気を祓う、元気溌剌になれる  17:54
生玉
死返玉
<子之神社・魂振りと魂鎮め> 
昔の人は魂を身体から離れやすい存在と考えていた。
たとえば失恋・失業したり親族が亡くなったりすると、そのショックで魂は身体を離れる。
魂の抜け殻となって茫然自失し、内に閉じこもるようになってしまう。
こういうときには魂をしっかりと心に居着かせなくてはならない。その技が魂鎮め。
ストレスが多くてやる気がおきないとか、病気の治りがわるいなど、
精神的に落ち込みやすいのであれば、魂の振動数をたかめて元気づけてやる、これが魂振り。
魂振りと魂鎮めは神道呪術の基本で、禊(みそぎ)などの「行」を行ったり、
神職に祈祷してもらうことで、魂の健全さを保てるとしてきた。
勾玉などのお守りを持つことで魂を元気づけられもする。
現代社会は自己責任こそ人間の努めのように喧伝するが、
少し前までは何もかもを自分で決断しなくてすんだ。
「鬱」のような症状は憑霊、呪い、祟り(たたり)など外に原因を求めて、
お祓いしてもらえば解消する場合が多かった。
子之神社では宮司さんのご好意でご祈祷してもらった。
神霊の気が首筋から肩、背中に降りていってすがすがしかった。
ああ、ご祈祷とはこういうことなんだと思った。
写真はニギハヤヒ十種神宝のうち生玉と死返玉のイラスト。


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天空神ニギハヤヒと十種神宝と湯河原の子之神社  22:05
十種神宝
<ニギハヤヒと十種神宝> 
ニギハヤヒは神道オカルティズム・ファンの間ではスーパースターだ。
物部、穂積など、物部系の古代豪族は彼を氏神(祖先神)とする。
詳しくはないのだが、物部一族の年代記とされる「先代旧事本紀」という古文書に、
ニギハヤヒと十種神宝のことが記されている。
ニニギに先立って高天が原から天降った天孫族がいた。
それがニギハヤヒでこの事件は『古事記』にも記されている。
地上世界へと降下するに際してアマテラスは天孫族の証しとなる「十種神宝」に託して、
治療と調伏(敵を倒す)の呪術をさずけた。
古代大和朝廷では物部はモノをつかさどる専門職で、ここでのモノは武器と呪術を意味した。
「十種神宝」は絵図が残っていて、子之神社にも保管されている。
子之神社のホームページを開いて、目次バナーの「祈祷・祈願案内」をクリックすると、
「十種神宝の図」を閲覧できる。日本離れしていてオリエンタルな風情には感じいるものがある。
子之神社HPは下記をクリック。神社は終日参拝自由、宮司さん不在の日もある。
ご神宝類の一般公開はしていない。


<ニギハヤヒと十種神宝> 
ニギハヤヒと十種神宝は、二枚の鏡(奥津鏡、辺津鏡)、一振りの剣(八握剣)、
四個の玉(生玉、死返玉、足玉、道返玉)、三枚の比礼 (蛇比礼、蜂比礼、品物比礼)
から構成されている。「先代旧事本紀」は平安時代初期に編纂されたという。
この時代の人たちは勾玉を知らなかったが、ヒギハヤヒの時代を考えるなら、
四個の玉は勾玉が似つかわしい。四つの玉はそれぞれ、
人を元気づける、死を遠離するほど癒しの力が強い、望みのものを手に入れる、呪いを返す、
というように呪力が強かったのだろう。
二枚の鏡は遠くと近くを見通す鏡。
比礼(ひれ)はいまでいうストールで天女の羽衣もこれに類する。
パワー(気)は風であり波動なので、ウチワを仰ぐように呪具としての比礼でコントロールできた。
蛇・蜂・百足(むかで)を追い払い、欲しいモノを招きよせることができた。


<ニギハヤヒと十種神宝> 
十種神宝の足玉(たるたま)には父上、道返玉(ちがえしたま)には母下の但し書きがある。
すなおに解釈すれば、父は白、母は赤を象徴するので、
足玉(たるたま)は白い勾玉、道返玉(ちがえしたま)は赤い勾玉なんだろうと想像できる。
古代の考えでは男性の白い精液は骨髄で作られる男の精のエッセンスであり、
女性の胎内で血液で養われて胎児になる。だから女性は妊娠すると月経が止まる。
紅白は陰陽和合の象徴となり、めでたさを祝う色になった。
紅白の饅頭はセックスを象徴するなんて純潔好きな人たちが聞いたら卒倒しそうだ。
足玉(たるたま)は心を元気付ける魂振りの、
道返玉(ちがえしたま)は霊的安定をうながす魂鎮めの勾玉のようでもある。
吉野の天河弁財天が日本有数のパワースポットとして著名になったように、
子之神社も精神世界ファンのだれもが注目する霊験あらたかな神社になるんではないだろうか。

子之神社HPはここをクリック
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■<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ   3/07-11 2018 10:33
百草園
百草園
百草園

★ 3/07<過ぎてゆく日々のこと> 
住まいから駅とは逆の方向、丘陵の奥へむかって歩いて行くと、いやおうなく百草園という庭園に着く。
ここらあたりでは名の知れた梅林がある。
梅の花見なんて地味だと思って名刺サイズのカメラしか持っていかなかった。
けれど満開の梅園は白や赤の点描画のように輝いていて、
アボリジニの絵のなかへ入っていったようだった。
意識を変性させて周囲の風景を点描画のように見る世界の見方がある。
クサマヤヨイはみえている通りに絵を描いて世界のクサマになった。
ゴッホも見えている通りに絵を描いたのだが、生前は狂人の絵としか評価してもらえなかった。
点描画の梅園をこちらの梅から向こうの梅へと目が移ろうままに眺めていくと、
SF映画の異世界をオーソニコプターかなんかで飛んでいくような気分になれた。


★ 3/08<過ぎてゆく日々のこと> 
昨日の午後、山の家では向かいの山の冬枯れたした草むらに数匹のサルがいた。
インドの自然保護区で野生のゾウを見るのとおなじようにワイルドライフに感嘆して、
3−400メートル離れたところで群れるサルたちを見た。
住まいの近所や百草園(もぐさえん)の梅の花が満開でも、山の家では紅梅は堅い蕾のままだ。
開けて今日は朝から冷たい雨。木々の枝に寄り添って雨に濡れるサルたちは寒かろうと思ったら、
寒さにふるえるサルになった気分がして、自分の隣のサルのごわついた毛皮を感じられた。
雨の中をインディ・ジョーンズみたいなつば広の帽子をかぶって、
倉庫から作業部屋へボール箱にいれた石たちを運び、
ピクチャーストーンの在庫チェックをしている間に時間が経っていった。


★ 3/11<今は昔のある日> 
革袋に水を満たすように息を吸う。
こころもち止めてから吐く。岩の間を清水が伝わるように細く長く息を吐く。
吐きながらひとつの吐息にひとつづつ数を数える。
「ひとーつ」と細く長く息を吐く、止める、吸う、「ふたーつ」と細く長く息を吐く、
そんな調子だ。
短くても1分間で6つ数えることになる。
10まで数えたら1に戻る。数息の間は息を吸うこと数えることだけに気持ちを集める。息を見守る。
吐いた息は足の方から出て行く。雑念がわいたらちょっとの間それを観察して押し流す。
やがて雑念が消えていく。
脳の内側に黒漆の文箱(ふみばこ)のように艶があってくろぐろとした藍色がひろがる。
風が梢をわたっていく。杉の枯れ枝が落ちる。庵の裏手では清水が岩を伝う。
そういう音が耳にはいっても意識にひっかかることはない。
言葉が喉からながれでて歌になる。
良寛は足をといで文机に向かい、墨を刷り筆を浸して紙に歌を書く。
気持ちはいよいよ澄んで静かな愉悦が丹田をくすぐる。
 
山かげの岩間(いわま)をつたう苔水の かすかに我はすみわたるかも
| 過ぎてゆく日々のこと | comments(0) | trackbacks(0) | posted by YK
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