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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 3/09-3/11 2024  10:39
スイレン
★3/09<ゾクチェン> 
日本にいるとチベットは遠い。ごく短期間首都ラサに滞在したくらいでは知った顔もできない。
チベットの宗教について短くまとめるのは難しい。
チベットの宗教というと一般には淫祀邪教そのままのような仏像や仏画で知られていて、
そこには西洋思想よりさらに深い思想、
現代文明の閉塞感から抜け出る智慧が埋もれていることを理解されていない。
見かけの淫らさが儒教思想になれ親しんだ人々にアレルギー反応を引き起こしている
(セックスと聞くだけで、なんてけがらわしいと思うような人たちのことだ。自分も当事者のくせに)。
チベット仏教には後期インド密教をベ−スに4つの大きな流派とボン教という土着信仰が
仏教化した宗派がある。後期密教は空海が招来した中期密教以後にインドで隆盛した密教で、
母系文化の影響のもと、性の恍惚を比喩に宗教的神秘体験(悟り)を
語ろうとしたことに大きな特徴がある。
話題のゾクチェンはニンマ派とボン教の瞑想法で、
日本の禅宗で「無」に瞑想して心を無の境地に開いていくのに似ている。
ゾクチェンの場合は「無」の体験で終わりにしないでここから成就への道程がはじまる
(ここでの「無」は空白でも虚無でもない)。
チベットは1948−51年にかけて中国軍によって侵略され、その後、
紅衛兵による悪鬼のような蹂躙という過酷な時期を迎えた
(中国軍による征服と抑圧はいまもつづいている)。
これが契機となってインドに亡命したチベット人僧侶がさかんに欧米に招聘されるようになり、
チベット仏教が世界に知られていくようになった。11-23-2 065
(真摯な気持ちで「性」に向かうならセックスが神秘であることがわかる)


クリスタルブッダ
★ 3/10<ゾクチェン> 
カレンダーに眼をやるときょうはもう3月がはじまって10日経っている。
2月の終盤からずーっとチベットのボン教のゾクチェン関連の本を読みふけってきた。
関連する書籍を次々に読んでいくと概略の理解に役立つだけではなく、
関連する分野のどこにおさまるかが見えてくる。
ここではチベット密教とか、インドを含めてタントリズムの、ということだが。
ひとつの対象を撮影するのに望遠レンズから広角レンズにきりかえ、
さらにマクロレンズでとらえるようなもので、頭の中で対象が輪郭をととのえ立体感をましていく。
原稿を書けるほど詳しく知っているわけではないが、
タントリズムはゾクチェンがチベットに伝わったのとほぼ同じ時期に、
北インドのカシミールあたりで仏教とヒンドウが混交して醸造されたらしい。
だから観音菩薩は女性化したし、チベット密教の菩薩たちのなかには女神のごとく胸がふくらんだ
彫像がある。世間では性的差別の撤廃、男女同権ということがいわれているが、
それは女たちを男と同じように扱うということで、
女神信仰の底流にある大地の女性性をみんなで生きるというのとは違う。
難しい問題だし、熱意を込めて書いても世俗の人たち、
とくに政治意識の高い人たちには理解できないテーマと思う。
(2-24-2 414クリスタルブッダは虹の身体を実現したゾクチェンのブッダでもある)


本
★3/11<ゾクチェン> 
『光の少年、チベット・ボン教の二つの図象から読み解く秘密の口承伝統』
(サムテン・ギェンツェン・カルメイ、津曲真一訳、ナチュラルスピリット、2023)を読了。
一回読んで終わりにしないで、同好の志が集って、数ページづつ内容を話し合うなら、
思考を深めていけるだろうと思った。
寂しいことにそういう知り合いはいない。「光の少年」はボン教の瞑想&思想体系であるゾクチェンの
聖者タピリツァの別名で、真理の象徴という。
本書は2枚のタンカの解説書となっていて、
3分の2ほどはゾクチェンの「師資相承伝」が展開されている。
残り3分の1がボン教の聖典「シャンシュン・ニェンギ」のうちの「四輪結合」の解説となっている。
後者を読むとボン教やチベット密教の奥深さに目まいがする。
現象世界を人間の意識はどうやって認識していくのか、それと涅槃(解脱)との関係や、
死後のバルド(中有)の旅とのつながりなどが説かれている。 
自分にとって本拠地は『ヨーガスートラ』にあって、後期密教以外の仏教にはさほど関心はない。
その経緯の上で、チベット密教やボン教への興味が深まっている。 2-24-1 261

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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 3/05-08 2024  08:11
梅の花
★ 3/05<過ぎてゆく日々のこと> 
バスを降りて山の家への道すがら山の中に入って、荒れ地の端に咲く梅の小枝を3本ほど
折ってきて仏壇に供えた。人家の庭じゃないから多少小枝をくすねたところで咎める人はいない。
それに家に着くまで10分ほどのみちのりを、擦れ違う人も車もなかった。
リュックの脇のポケットに梅の枝をさして歩く姿はちょっとばかり風流だと思っていた。
仏壇にはカシワモチを供え、香を焚き、般若心経を2巻読んだ。
父母それぞれの命日を覚えていない。何歳で亡くなったかも忘れている。
坊主に依頼しての法事もしていない。
自分が読む般若心経のほうが、そこらのパワーレスの僧侶よりましと思っている。
親が子を育て、その子がまた子を育てる。
うちの場合は彼が息子でよかったし、彼の子が自分の孫でよかったと思っているが、
そうでない親もいるだろう。
いまの社会環境は子育てするのに難しく、
老後になっての見返りゼロでは、育てる励みも減るだろう。難しい問題だ。
午後からの小雨は夜遅くに雪に変わった。
南の部屋の窓から街灯に照らされて点描画となって降る雪を見ていたら、
薄く雪が積もった道路を白い着物を着て髪の長い女性が傘もささずに歩いていった。
2-24-1 384 397 403


ラサ、ポタラ宮
★ 3/06<ゾクチェン> 
日が暮れて夜の帳(とばり)が下りると、
自分の部屋の山側の窓の外はまっくらでひとつの明かりもない。
道路がないから街灯もない。
耳をすますと渓流の水音に加えてわずかに雨の音がする。
雨に濡れてタヌキやイノシシは寒かろう。シジュウガラだって辛かろう。
室内の模様を鏡のように映した暗い窓のこちら側をテントウムシが一匹降りてくる。
チベット仏教への関心がつづいていて、1983年に開催された「大チベット展」という展覧会の
図録を出してきた。ゾクチェンにはニンマ派とボン教とふたつの流派がある。
伝説や継承の違いがふいにわかった。
こういう宗教関係の流派は、たいがい自分のところの水が一番甘いことを誇張して客集めしようとする。
有名社寺の参道の蕎麦屋の客引きみたいな口上がつづいて、
通りすがりの旅行者がそれを理解するには時間がかかる。
本に書いてあっても読んでわかることと、鷹が爪で獲物を掴むようにそれをしっかりと
理解することは同じではない。ゾクチェンは「大いなる完成」という意味のチベット語。
ヨーガでいうプルシャの輝きを回復させる瞑想法をいうんだろう
(仏教はプルシャ、真我を認めないからやっかいだ)。(ラサ、ポタラ宮)


クリスタルブッダ
★3/08<ゾクチェン> 
このフェイスブックはこれまで作ってきた単行本のつづきで、
うちのお客さんに天然石を軸に精神世界の広がりを紹介していくためにはじめた。
心の宇宙への理解は瞑想抜きには始まらない。
読めばわかるなどと思うのは無知のさらけだし。
日常性を離れるということを知ってほしくて、瞑想入門みたいな記事がふえていく。
ゾクチェンとチベット仏教、ボン教についてもまとめておきたい気持ちがあって、
数日来、どこを糸口にすればいいかを考えている。
ボン教を含むチベット密教(後期密教)には知らないことが多々あるし、
ゾクチェンの実修者ではないからなおさらだ。
若かったころの一時期、狂気のような瞑想マニアだった。
そのあげく身体のなかで太陽が爆発するような体験をした。
いま同じようなことが起きたら、身体がもたないだろうという気配がある。
老いると過激なことを好まなくなるようでもある。
それでもインドの後期密教=チベット密教について思いを巡らせるのは素晴らしいことと思っている。
(チベット仏教には成就の最終形態として「虹の身体」という考え方がある。
クリスタルブッダに似ている)
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 3/01-02 2024  08:37
山の家
★3/01<過ぎてゆく日々のこと> 
もしも子供が世の中にうまくなじめないようなら、人類の5%くらいはそういうふうに生まれてくる、
彼らが文化を刺激して牽引してきたと語ってやるといい。
彼らがいなかったら文化は薄っぺらなものになっていただろう。
停滞し退屈して滅びていたかもしれない。
よく覚えていないけれど、コリン・ウイルソンがなにかの本に人類の5%ほどは
他と違う能力を持って生まれてくると書いていた。
おそらくどんな動物も5%くらいは規格からいくらかずれていて、
かれらが種に活気をあたえ自滅するのを防いでいる。
そういうものなんだと子供たちに教えてやれば、彼らは自分を受け入れることを学ぶ、
自信もついて新たな一歩をそこから踏み出せる。社会との軋轢を広げずにすむ。
そんなふうに思っている。
世の中になじめなくて会社勤めに向いていなくても、職人になるなど、
他人とあまり付き合わなくて済む職業がたくさんある。
山の家にいると林業や造園業は世間から多少ずれていても立派に腕を磨ける職業のように見える。
1-24-2 024


宇宙卵
★3/02<過ぎてゆく日々のこと>
いれたてのマグカップのコーヒーにクリームを加えて浮かんでくる白い模様に見とれてしまう。
コンシャアゲートの模様に似ている。濁流の渦巻きにも似ているし、火山の噴煙にも似ている。
自然界ではミクロからマクロまで同じ物理の法則にしたがう。
やがてマグカップのコーヒーが白く染められた茶色一色になるように、
エントロピーは静止に向かって拡散していく。
古代のインド人は心(意識活動)も物質の一種と考えていて、
表層意識はコーヒーにいれたクリームのように潜在意識のなかに姿をあらわすと想像していた。
何ごともいっとき姿をあらわにして消えていく。(宇宙卵のヤントラ)


梅の花
★3/03<過ぎてゆく日々のこと> 
頭の中で、人里離れた山中のあばら屋で、破れた屋根から入る月光のもと、
人間とは思えないほど醜い老婆がカマを研いでいる。
迷い込んできた旅人を調理して餌食にするためのもので、
老婆は「山姥(やまんば)」とよばれている。
母方の祖母は話が上手な人で、彼女が語ってくれた山姥の話は、
いまにも板戸をあけて髪ふりみだした山姥がはいってきそうでほんとうに怖かった。
江戸時代に飢饉となると、自分たちが生き延びるために死期の近い老人を山に捨てた。
おおかたはオオカミの餌食になったが、なかには生き延びる者もいた。
老婆のばあいは山姥になった。山姥は火炎に包まれた雲にのり、旅人を仕留めるまで追いかけた。
神話の構造としては山の神は元来女神で狩りの獲物を生み、人間に授けてくれる存在だった。
なのに男社会になるにつれて母系的なものはことごとくさげずまれ、
マッチョな男たちの武勇伝に書き替えられていった。
女神は貶められて山姥になった。
古い時代の神話では、女神は少女と成熟した女、老婆の3つの相をまとってあらわれる。
老婆になった女神は男たちに恐れられたがゆえに凌辱されて、
醜く恐ろしい姿で描かれるようになった。復権する山姥のお話を考えている。
(1-24-2 067雛祭り)

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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 2/28-29 2024  08:24
紅梅
★2/28<過ぎてゆく日々のこと> 
過密な環境で小魚を飼って餌を与えないでおくと共食いする。
奈良や平安時代は150−200人ほどの貴族が足のひっぱりあいをして、勝者たらんとしのぎを削った。
今の会社でも似たようなことが行われている。
違っているのはしばしば敗者はライバルの策略に負けて死に、死後に怨霊になったことで、
勝者は怨霊を恐れつづけた。彼らは精神的に不健康でみんなが心をやんでいた。
疑心暗鬼な日々が日常で、思い込みに呑みこまれやすかった。
飛鳥時代が終わって奈良・平安時代になると古墳は作られなくなり、翡翠勾玉も用済みになる。
日本の古代史への関心も薄れていった。
ところがたまたま『歴史読本・特集敗者の古代史』という雑誌を読んで、
ここらあたりの時代は怨霊オンパレードであったことを知り、
この世に恨みを残して死んでいった者たちへの関心が強まって深入りしつつある。
彼らには権力にしがみつくことの愚を示してやったほうがいい。1-24-2 067


スギ花粉
★2/28<過ぎてゆく日々のこと> 
庭に座って向かいの山を見ていた。逆光のもとで手前の丘の木々が銀白色に光っていた。
椿か榊か葉に光沢のある樹木らしかった。
そこでは木々のどれもが満ち足りていた。
こんなふうに目にするものなにもかもが充足して見えるというのは、
恍惚の人になっていく兆しかもしれなかった。
もっとも旅先では山や川に接するとそういう思いにかられることがしばしばあったから、
人生の余裕とも思う。
そのうち遠景の杉林のあちこちで薄茶色の雲がわかくのに気付いた。
思いを巡らせて杉が花粉を撒いていることに気付くのに幾らか時間がかかった。
木立ちのなかほど黒い影の部分でふいに霞が不意に吐きだされ、風に運ばれて拡散していった。
やがて山の全体が黄色がかった霧におおわれた。
近くのトタン屋根では荒れ地に砂塵が渦巻くように積もった花粉が小さな竜巻となって走った。
杉の枝の1メートルほどの範囲の花穂が完璧にシンクロして花粉を噴霧する様子は、
木にも意志があって談合しているかのようだった。(1-24-1 052 061遠景でもやっているのが杉花粉)


ゾクチェン
★2/29<読書記録> 
『ゾクチェン瞑想マニュアル』(箱寺孝彦、ナチュラルスピリット、2019)を再読。
読み過ごしていた箇所もよくわかった。
瞑想法にも流行があって数年来もっともホットでクールな瞑想法と注目されているのが
チベット密教(ボン教を含む)のゾクチェン。
これまでゾクチェンをテーマにした本にはダライラマやナムカイ・ノルブの著作があったが、
具体性に欠けていた。
ゾクチェンは加行と本行の2本仕立てで、いきなり「ツァルン」という
クンダリニーヨーガみたいな瞑想法にトライしても、たぶんうまくいかない。
加行については『光明の入り口・カルマを浄化する古代チベットの9の瞑想』
(ヨンジン・テンジン・ナムダク・リンポチェ、箱寺孝彦訳、∞books、2018)
というガイドブックがある。著者箱寺さんには「箱寺先生のちいさな瞑想教室」というサイトがある。
ここでは低価格でチベット式先祖供養をしてもらえるので、日本の僧侶に不信感が強かったり、
自宅仏壇に僧侶を招きたくない人には助けになる。2-24-1 257

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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 2/23-24 2024 08:31
パンジー
★2/23<過ぎてゆく日々のこと> 
現代人であるわれわれは起きている間は四六時中、目に入るものを見たり読んだりしている。
PCやスマホのニュース程度なら見ても読まなくてもどうでもいい、
知っていないと周囲から取り残されることもない。
それのみに囚われてしまうと、メディアや企業の思いのままに操られる低劣な人間になりさがっていく。
なのに目にするものことごとくを読む習性から逃れられない。
人間性について真面目に考えるなら、この問題はもっと考慮したほうがいい。
見たり読まなくする方法はただひとつ、目を閉じること。頭をたかくして仰向けに横たわり、
目を閉じると、気がおなかの方におりてゆく。
水に浮く枝葉のように身体が滑らかになる。
空気の気配と同調する。空気を読むつもりになると、
2月のなかばだというのに春の気配がみちていることがわかる。
いろいろなことが見えてくる。(2-24-1 223 紫色のパンジーの花に止まった雨滴)


本
★2/24<読書記録> 
『ザリガニの鳴くところ』(ディーリア・オーエンズ、友廣純訳、ハヤカワ文庫、2023)を読了。
アメリカ南部、ノース・カロライナ州。フロリダに近く比較的温暖な土地。
海岸のすぐ内陸部に水路がある湿地帯は文明から放置されている。
落伍者たちが点在するバラックがあって、地元からはごみくず扱いを受けている。
そういうところで両親や姉兄から捨てられた少女がひとりで必死にサバイバルしていく。
少女の成長物語は恋愛小説にかわり、恋人が変死したことでミステリーになる。
野生動物の生態が語られることが多く、彼女も野の育ちであることが強調される。
タイトルがよくて表紙のイラストもとてもいい。
帯には「2021年本屋大賞翻訳小説部門第一位」と印刷されていた。
書店にカミサンとふたりでいて、この本おもしろそうだ、といったら、
彼女はすでに読んでいて、すごくおもしろかった、といった。
うちではあまり互いの趣味の話をしない。
それで借りて読んだ。まあまあおもしろかった。2-24-1 252


梅の花
★2/23<読書記録> 
『謎の平安前期』(榎村寛之、中公新書、2023)をおおざっぱに読了。
サブタイトルに「桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年」とある。
初めは熱心に、かつ興味深く読んでいたけれど、
途中で登場人物の多さや著者との感性の違いにめげてしまって、適度に拾い読みしておわりにした。
半年ほど前から飛鳥・奈良・平安時代関連の新刊書を買っては、
途中で投げ出したり、パラパラめくって放置したりしている。
若手の文化人類学者の本が退屈なのと同様、新進の歴史学者の著書にも波長があうのと出会えない。
彼らは気負いすぎなのか、自分の意見のみに力こぶをいれて余裕がない。
古代史への向き合い方に、古代の人たちへのシンパシーがあるのとないのとでは、おおいに違う。
人間の存在を宇宙の一部とみなしていた人たちの文化を、
理知的なモノサシで解明できると考える人たちと付き合おうとすると呼吸困難になる。
学者たちと旅人は同じ事象に会っても違うものを見ている。

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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 2/17-2/18 2024  10:30
結露
★2/17<藤原広嗣の乱> 
藤原広嗣の乱に思いを馳せている。
藤原京時代から一歩現代に近付くと都は奈良に遷都して平城京になる。
聖武天皇と皇女の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の時代は争い事の枚挙に暇がない。
なかでも藤原広嗣の乱が興味深く、事件前後の状況を理解するのに時間がかった。
広嗣の乱は彼の父を含む藤原四兄弟が天然痘であいつで病死するところからはじまる。
4兄弟は藤原不比等の息子たちで、政権の中枢部にいて大臣を務めていた。
大きな痛手をのりきるのに手腕を発揮したのは聖武天皇の皇后の光明皇后と父親違いの兄、
橘諸兄だった。彼らは遣唐使として中国から帰国した吉備真備と玄ボウの協力を得て政権を安定させた。
おもしろくないのは藤原四兄弟の遺児たちで、なかでも藤原宇合の長男・広嗣はうとんじられて
太宰府に左遷された。やがて広嗣は反乱軍を組織して挙兵したことにされて、逮捕され処刑された。
広嗣の乱はどの程度まで本気だったのかはかりがたい。
広嗣は死んでも死にきれないほどの恨みを抱いて、死後に怨霊になった。
こういう怨霊はのちの世のものたちが慰撫したところで慰めきれなかった。


★2/18<読書記録> 
『修験道の経・講式・和讃・唱言』(宮家準、春秋社、2023)を読了。
修験の行者って何人くらいいるのかとネットをひくと、真言密教派と天台密教派を合計して
約46万人とあった。このうち時代劇風の装束で山野で修業する人は何割ほどか定かではない。
マッチョな雰囲気を漂わせた行者たちを高尾山で見たことがある。
本書では彼らが唱える経や真言などをまとめて解説してあった。ありがたくももったいなく、
これ以上の真実はないと思えることがたくさん書いてあった。
修業者が経典に記されているとおりに修業して自己実現していったら、
日本の仏教界はいまより1万倍は増しになるだろうに、そうはなっていないのが残念だ。
チベット仏教でも僧侶の大半は目先の物欲にとらわれ、ことなかれ主義の日々を送っているようだ。
末法の世だからかもしれない、あるいは信仰とはそういうものだったといえなくもない。1-24-1 682


★2/18<過ぎてゆく日々のこと> 
年をとるにしたがって、動くのがおっくうになり怠け癖が助長されていく。
山の家の作り付けの物置が経年劣化して出入り口の扉の枠が腐り、扉も化粧板がはがれて、
カギがかからなくなっている。元気だった時代なら半日ほどかけて修繕するのにと思っても、
身体が動こうとせず、応急処置にブルーシートをガムテで止めたまま、半年余り放置してある。
こうしたなまけぐせは鬱病など心の病にもみられるという。
ここでの問題は、まあ、しかたがないかと思ってしまうところにある。
自分に鞭打つ気になって、ひとつづつ対処していったほうがよさそうだ。
そうじゃないと山の家がゴミ屋敷になってしまう。1-24-1 029
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 2/05-16 2024  08:43

梅の花★2/05<過ぎてゆく日々のこと> 
隠居する年代になって人に会いたいと思わなくなった。
とくにこの3、4年のコロナウイルス騒動になれてしまって、引きこもり気配が常態になっている。
家にはカミサンがいて居候しているかのように暮らしていると、
それで充分で話相手が欲しいとも思わない。
少年期から20代半ばあたりまでは年中同性の友だちとつるんでいた。
そうやってサル族の一員として群れでの暮らしかたを学んでいたんだろう。
源氏物語風にサカリのついたチンパンジー同様、女の子とつるむことばかり考えていた年代もあった。
自分の意思というよりも本能的衝動だったんだからしかたがない。
それが孫ができるほどの年代になると、他人にチヤホヤされるのが疎ましいこともあって、
巣穴にひきこもるムササビのように居心地良く整えた部屋にひきこもった日々を好むようになっている。
世の中には胸を痛めることがいっぱいあってもどうにかできることではないし、
それらを他人行儀にながめながら、それなりに忙しい日々を送っている。
こういうのもまた本能的な選択なんだろう。1-24-1 349 226
(いま頑張らないと、あんたの人生はそれで終わりという人もいるだろうから、
そういう人には頑張ってほしい)


テイオテイワカン
★2/12<過ぎてゆく日々のこと> 
エイリアンが巨大宇宙船でやってきて、代表者に会いたいといったら、誰を選ぶんだろう。
習近平主席、プーチン大統領ではなく、国連の事務総長でもなくて、
やっぱりアメリカの大統領ということになるだろうか。その大統領がトランプだとしたら、
それだけは願い下げにしたい。
個人的にはもっとも嫌いな人物の筆頭にトランプ元大統領がいる。
アメリカが世界の良心で、文明の最先端だと信じていた時代があった。
アメリカへいくと、みんながとても巧みに英語を話す。
ひとりひとりがくっきりと自分の意見をもっている。
それだけで尊敬まなざしを注ぐのに十分だった。
ポパイという雑誌がプロパガンダの先兵となり、アンダーグラウンドの活動状況や、
サブカルチャーについての情報がにぎわっていた時代の話だ。
でも実際にアメリカを旅行してまわるようになると、彼らの英語が巧みなのは当然のことで、
各自が意見を持つのは、そうしないと周囲から捨てられるだけのことで、
おしなべてアメリカ人は相当にシンプルであることに気付いた。
多くの日本人にとって元大統領のような人間がなぜ人気があるのか理解できないところだが、
根底で白人優位主義者で人種差別主義な人たちが、
アメリカが世界の良心であることをやめたがっていて、
自分たちの富を外の国に配りたくないと思っているからなんだろう。
(メキシコのティオティワカン、アメリカ合衆国より1500年ほど古い)


キャンドルクォーツ
★2/16<鉱物標本> 
うちのツイッター用に新しい写真がほしいというので、
鉱物見本としてコレクションしてあった標本を幾種類か持ってきた。
鉱物の写真が必要になる場合に備えて各種鉱物を集めてある。
それとは別に格別お気に入りの標本もある。
けれど、セミリタイアの身ではもう新しい鉱物関連の本は書かないだろうし、
幕が閉じるように人生を終えていくなら、残された標本ケースを前に家族は処理に困るだろう。
ひとつひとつの標本がどれくらいの価値があるかも彼らにはわからない。
鉱物たちがぼくの人生にどれほど多くの彩りを与えてくれたか計り知れない。
大地や地球を舞台に、草や木やいろいろな動物とともに生きているということを
教えてくれたのも鉱物たちだった。
大きな輪の一部として自分があるし、自分のなかに大きな輪の全体が埋もれているということを、
鉱物たちとのコレクションを通じて学んできたように思う。1-24-1 478 487

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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 2/03−05 2024  13:03
日本ヒスイ
★2/03<過ぎてゆく日々のこと> 
「呪い返しのブレスを作る」という夢を見た。
ねたみ、そねみ、暴言、など実際に暴力行為はなくても、
パワーハラスメントやセクシャルハラスメント的な攻撃はあるし、
相手が無神経であるがゆえの言葉の投げ掛けに傷を負うこともある。
破裂寸前のストレスをかかえた中高年が野放しになっていることもあって、
満員電車ではちょっとぶつかっただけで蹴り返されたりするし、
スーパーマーケットではささいなことでからまれたりする。
中世ではこうした言動の背後に邪(よこしま)な者どもの存在を見てきた。
未浄化霊や餓鬼も含めて邪な者どもの視線は「邪眼」とよばれて、
多種多様な邪眼除けのお守りが世界中で作られてきた。
現代風に邪眼は迷信だと割り切っても、他者からの中傷が耳に入れば気分がよくない。
場合によってはトラウマとして残る。
「呪い返しのお守り」を手に「私は守られている」との思いを重ねるなら、
自分を精神的にプロテクトするのにやくだつだろう。


紅梅
★2/04<過ぎてゆく日々のこと> 
2階の窓の外の冬枯れしたカエデの枝に5、6羽のシジュウガラがきている。
目まぐるしいまでに動きが早くて、あの小さな身体の付け足しのような頭のどこに、羽ばたいたり、
枝に衝突しないよう距離をはかるシステムが蓄えられているのだろう。
シジュウガラに限らず、メジロやウグイスの素早さを目に止めるごとに驚いている。
昨日までとはうってかわって寒気が戻ってきている。
布団から出るのが嫌で、2階と1階のエアコンをつけて、布団に戻った。
居間には処分する古本がダンボール箱に3箱積んだままになっている。
身障者を雇用している古書店が町にあって、電話予約すれば引取りにきてくれるのだけれど、
原始人的感性には電話したり、予約したりがおっくうでならない。
そうやってあっという間に2−3ヶ月が経っていく
窓のそとのシジュウガラは先程までとは違った群れがやってきて、
同じようにいそがしげに梢の間を飛び跳ねている。
彼らとは同じ生命をわけあっているという気がしてくる。


梅の花
★2/05<過ぎてゆく日々のこと> 
本を読みたいと思わない日がある。山の家の自室の一面は窓をふさいで本棚が占拠していて、
神話伝説や人類史、シャーマニズムなど、好みの本がならべてあるのに、
読みたい本を手にとる意欲がわかないのはへんなものだ。
小学生のころ学年ごとの月刊誌があって本を読む楽しさをそこで覚えた。
とくに付録についてくる海外小説のダイジェストは空想を広げる能力を養ってくれた。
本を開く。大部の小説であろうと、インドの薄い聖者伝であろうと内容をとわない。
なにがしか興味を惹く要素があって行(ぎょう)を追う。
そこには知らなかったことが凝集されている。
小さな手漕ぎのボートで大海に乗り出していくような、
おんぼろの乗り合いバスに乗って砂漠を旅していくような楽しみがある。
著者が数か月か、または何年もかけて仕上げた本には記された情報以上の力があって、
そうした本との出会いが嬉しい。1-24-1 232
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ  1/25−2/02 2024 11:12
チベット、
★1/25<読書記録> 
『新編西蔵漂泊』(江本嘉伸、ヤマケイ文庫、2017)を読了。
サブタイトルに「チベットに潜入した十人の日本人」とある。
すっかりと体調が壊れてしまって14日以降伏せったままだった。
それでもこの3日ほど本が読めるようになって、起きている間は読書していた。
明治から大正にかけての時代と第二次世界大戦末期の時代、
鎖国をつづける国チベットに国賓待遇で留学したり、潜入したりした日本人が都合十名いた。
求法の僧やヒッピー風の放浪者、訓練を受けたスパイと、目的や職種もさまざまだったし、
なかには音信不通になった者もいた。本書ではこの十名に対して年代順に伝記が並んでいる。
チベット潜入記というと河口慧海のみが有名で他は忘れられがちになっているが、
十人十色の個性の豊かさに驚嘆することしきりだった。
1世紀ほど前にチベットに潜入した日本人にふれるのは、今回はもう十分な気持ちでいる。
木村肥佐生という人の単行本までは行きつけなかった。いつか彼の足跡を追う日が来るといい。


ハヌマンドガ
★1/29<読書記録> 
世俗のことにうとい。世間のニュースはないかのごときふうに暮らしている。
ネパールのファンであっても、彼のクニの人たちの政治信条とか民族の多様性、
カーストの構造などについて、あまり考えたことがない。
20年ほど前、首都カトマンズで10名ほどの王室ファミリーがひとまとめに銃撃され殺された。
同じ時期マオイストを名乗る反政府組織が国内を暴れまわった。
2008年には王制が廃止された。それぞれの事件がどういうふうにつながっていたのか、
考えることもなく時間が経った。
積み重ねた本の底に埋もれていた『ネパール王制解体・国王と民衆の確執が生んだマオイスト』
(小倉清子、NHKブックス、2007)を出してきて通読した。
読み終えてそういうことだったのかと納得した。
王はいなくなり、社会の底辺から選出された議員が登場しても、
古くからの因習や家族主義は解消しない、上が下を搾取する構造も消えていかない。
そうやって2015年に大きな地震がカトマンズを襲った。
政治家たちが我田引水にのみ汲々とする構図は消えていかないようだ。
(ハヌマンドガ、旧王宮の入り口)


梅の花
★2/02<過ぎてゆく日々のこと> 
梅の花が咲き始める季節になると、冬と春の間で気持ちが揺れる。
冬の枝から春の枝へ手を延ばしたテナガザルが両方の枝を手放したくない思いに
かられるのに似ているんだろう。
目覚めると繭のなかの居心地よさに陶然として布団からでたくない。
かといっていつまでも惰情にしがみついてるてわけにもいかない。 
洗顔してコーヒーを淹れるころには頭のなかで今日の予定が組み上がっている。
窓を開けて眼下の河川の工事の進捗状況を眺めると、
風に春の気配がして、梅の花を見に行く季節がきたのだと思う。
去っていく冬への愛惜がひとしおで、陰の季節を慕う思いに寂しさがつのる。
去年もそういうふうにして春を迎えた。雪国で育ち雪国で老いていった良寛も、
冬が嫌いなだけではなかったんんだろう。1-24-1 233
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ  1/15−1/23 2024  08:43
チベット高原
★1/15<読書記録> 
『西域探検の世紀』(金子民雄、岩波新書、2002)を読了。
インドを植民地化したイリギスはヒマラヤ山脈を越えた北へと触手を伸ばしていく。
同じ時期南下してきたロシアと、東の方から勢力を伸ばしてきた中国とが
西域(中央アジア)の覇権争いを繰りひろげる。
グレイト・ゲームと呼ばれる3国による駆け引きを背景に、
西欧にも中国にも白地図同然だった土地への探検ラッシュが始まる
。20世紀初めの出来事で、これによって仏教東漸(とうぜん)の道が明らかになり、
滅亡したシルクロードの国々が発掘されていった。
いまになってよくわかるということが多々ある。20年前にわかっていればよかったのにと思う反面、
知らないまま過ごすより知ったほうがはるかにましとも思う。
たぶん平均的な日本人よりたくさんチベットや中央アジア(西域)に関心を抱いてきた。
なのにいまもって頭の中の世界地図と地図帳の中央アジアが一致していない。
インド・ネパールの北方にヒマラヤ山脈がある。向こう側がチベット高原で大雑把には、
チベット高原は北側を崑崙山脈で区切られ、さらに北、タリム盆地(タクラマカン砂漠)を
南北に挟んで、シルクロードの国々があった。
いまでは新疆ウイグル自治区とされ、チベット同様中国政府の弾圧にあえいでいる。
(写真はチベット、ラサ郊外)


高尾山麓異界交遊録
★12/25<過ぎてゆく日々のこと> 
新著『三部作・高尾山麓異界交遊録』の電子出版は人頼みであっけないほど簡単だったので、
9年間書きためたフェイスブック&ブログも適宜ダイジェストして、
本にしたらおもしろかろうと思ってみる。
けれど著名な坊主や作家ではないし、瞑想の専門家でもないのに神秘主義関連の原稿をつらねても、
お金をはらう人がいるとは思えない。
あるいはアナイス・ニンのように文学趣味の美人が変わった性癖を披露するわけでもないので、
電子出版するのは簡単でも読む人はいないだろう。
湖に投げた小石から波紋が湖の全体に広がっていくように、自分が原稿を書くことで、
どこかでだれか、あるいは未来のいつか、その波紋にふれる人がいるだろうことを思いやる。
瞑想すればだれもが摩訶不思議な体験ができるわけではないし、
瞑想ごっこを気負っても悟りに近付けるわけではない。


クリスタルブッダ
★1/23<過ぎてゆく日々のこと> 
夜半に机の上の握り拳大の仏像が光っているのにきづいた。
光線を反射しているのではなく、内側から輝いていた。
ぼうぼうと燃えているようでまばゆく仏像のかたちを見極められないほどだった。
燃え盛るようすはいよいよ激しく、炎が房になって踊った。
けれど熱があるわけではなく、燃え盛るように輝いているのだった。
光が測りがたいほどの仏像だから無量光如来と思ってみた。
机の背後に身の丈ほどの本箱があって最上段に仏像が陳列してある。
そこにいまも盛んに輝く仏像をおいた。
本箱の最上段に仏像を飾ってないから、一連のできごとは夢だった。
あとになって忘れることがないように無量光如来と書いたメモを仏像の底に敷いた。
それでもきっと忘れるんだろうから、そのときは仕方がない。
そういう出来事があったのを思い出したのは2日ほど後のことだった。

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