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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 3話  6/06-18 2018 10:03
テッポウユリ
★6/18<過ぎてゆく日々のこと> 
コンクリートのアパートのベランダでは5つのプランターに植えた
テッポウユリがいっせいに花を開いている。
数えれば20くらいはあるのだろう。
梅雨空のもと、純白の花のまわりには静けさがただよい、霧雨のような寂しさが香ってくる。
寂静と書く。寂しい理由があるわけではないけれど、静けさには寂しさがついている。
生まれる以前から持ち越してきた寂しさなんだろう。
良寛は寂静のうちに自分の愚かさを許してやることを覚えたのだと思う。
そうすれば明日はもう少し賢くなれる。
受け入れて受け流してゆく。流し流し流ししていく。そのどこかで白百合が胸の内で花開く。


★6/09<過ぎてゆく日々のこと> 
良寛の伝記をよんでいると、彼の周囲の人、ひとりひとりの人生の濃さを感じて
安穏としていられなくなる。
住まいから倉庫まで徒歩3、4分、必ず何人かにすれ違う。
彼らひとりひとりの人生を思いやるとしたら、うるさくてしかたがない。
消しゴムで消しても差し支えない人たち。
なのに良寛の周囲にいた人たちに感じる親身さは尋常じゃない。
いつの時代だって生きていくのはそんなに楽しいことではない。
ましてや江戸時代末期の北陸は天災に苦しめられどうしで、
百姓や町人には武士たちのごり押しは堪え難かっただろう。
そんななかであれやこれやの策を弄して、家系を守り家族を育て、
書や和歌や古典に慰めを求めた男たちがいた。
みんながちょっとの間だけこちら側にいて死んでいった。
そういう人たちの息遣いが開いた本の行間にうごめている。


★6/15<過ぎてゆく日々のこと> (向こう側について) 
本に育てられてきた。たくさんの人がそうなんだろうから、とりたてていうほどのことではない。
ぼくの場合はとりわけローレンス・ダレルという作家の影響が強い。
彼の書いたものなら、レストランのナプキンに書いたメモだって読みたいと思っていた。
20歳を過ぎてからカルロス・カスタネダという文化人類学者の卵が書いた
呪術師の物語シリーズに夢中になった。
カスタネダはメキシコの呪術師ドン・ファンに弟子入りする。
ドン・ファンはぼくにとっても師匠だった。
当初カルロスはメキシコ先住民が儀式に使う向精神性植物の研究で
論文を書きたいと考えていて、ドン・ファンをインフォマートにしたがった。
つまり都会暮らしの自分のほうが田舎の先住民より偉いと思っていた。
それをドン・ファンはこともなげにいう。
呪術師に比べたらそうでない連中はゴミみたいなものでしかない。
自分に溺れてグズグズと生きて、泣き言を並べて死んでいく、うんぬん。
現代の日本でも精神世界というと迷信とか思って眉をひそめる人が多い。
ドン・ファン風にいうなら、パワーの世界を知らない人たちは哀れだ。
いまは、そういうことがくっきりと見える。

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子天狗との会話、水晶や瑪瑙と笑みを分けあう 11:01
メノウジオード
<子天狗の話> 
玄太がやってくる。背中で赤いランドセルが揺れる。
彼の姿は村の人たちには見えないだろうことに、ぼくは薄々気付いている。
玄太に影がないとか、そういうことではないし、ちゃんと水羊羮を食べるけれど。
「水晶はケイ酸とかが結晶してできるって言ったよね」「うん」
「じゃあ、メノウはどうやってできるの?」「メノウも水晶と同じようにケイ酸の結晶だよ」
「えっ? でも、全然違う」
「そうだね。ケイ酸には300度とか400度といった高温下で結晶すると水晶になり、
100度くらいで結晶するとメノウになるという性質がある。
地下水の温度が低いと水晶は結晶を成長させられない。
顕微鏡じゃないと見えないくらい極微の結晶が無数に沈殿凝集してメノウになるんだ。
メノウができるとき鉄とか緑泥石とかそういった異種鉱物がたくさん混じって
透明度がなくなったものがジャスパーだ。」「へぇー、同じモノからできているんだ」
「うん、ケイ酸は酸素とケイ素からなっている。地球の全物質のおよそ半分は酸素で、3割弱はケイ素だ。
両者を合わせると75%くらいになる。だからケイ酸はどこにでもある。
メノウができる温度が低いというのは比較的地表近くでできるということで、
メノウは見つけやすい鉱物なんだ」
「そうか、お師匠がね、天狗とメノウは兄弟みたいなものだと言っていた。
石と笑みを分けあうならそういうことがわかるって」


<子天狗の話> 
「石と笑みをわけあうって?」
「石を眺めていて可愛かったり美しかったりすると頬がゆるむ。そのことに気付いて、
あえて石にほほ笑みかけると、石が笑みを返してくれる」
「石と笑みをわけあうって、お師匠が言ったの?」
「うん。石と笑みをわけあう瞑想ってのがあって、天狗が石や木と兄弟であることを知るための行法なんだ」
「へえっ」「こうやってね、目を半分閉じて石にしのびよる。石に笑いかける。
きれいだね、とか話しかけてもいい。すると石が笑みを返してくれる。おなかがくすぐったくなるよ」
「ああ、とてもだいじなことだ」
「そうやってつつしみ深く石や木に接することで天狗的飛躍があるって。
お師匠の話は難しいことが多い」


<子天狗の話> 
「考えているんだけどさ」「何を?]「水晶はどれくらい大きなものがあるの?」
「人間の身長より大きなものを見たことがある」
「じゃあ小さいのは? ほらっ、メノウは目に見えない小さな水晶の粒からできているって。
じゃあ、見えるか見えないくらい小粒の水晶もあるの?」 
この前、玄太にメノウの話をしてから彼に見せるために各種サイズの水晶を選んでおいた。
「水晶にはこういう一般的な柱があって上に尖った垂面があるものと、アメシストのように、
柱面がなくて垂面だけが多数集ったものとがある。
アメシストやローズクォーツ、黒水晶は色が違うだけで水晶の仲間なんだよ」
「うん、知ってるって」
「そうか、水晶の粒々がどんどん小さくなって、煎餅にまぶしたザラメ砂糖のようになったものを
ドウルージーってよんでる。結晶の一粒一粒を目視できるか否かがポイントだ」
「こっちからあっちへの境目が水晶にもあるんだ」

(写真天然シヴァリンガ模様のメノウジオード)
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天狗との会話、水晶は地下深くの空洞で結晶する 10:14
水晶ポイント
<子天狗の話> 
「ほらっ」と言って、玄太が水晶のポイントを3本さしだす。
7、8センチの大きさで太さが3センチほど。ポイントにはダメージがなく垂面もくっきりとしている。
2本には、角閃石だかトルマリンだかの針状結晶が内包されている。
「きれいな水晶だ。どうしたの?」「おとうといっしょに水晶掘りに行ってきた」
「へっえ、すごいな、塩山じゃあ、いまでもこんなに立派な水晶が採れるの?」
「よく塩山だってわかるね」
「うん、この針みたいなものが入ったのはススキ入り水晶といって、このあたりでは塩山の特産なんだ」
「おとうは人間たちが知らない場所だといっていた。水晶のある場所って、
こいうふうに目をすがめて忍びよりすると白く光って見えるんだよ」玄太は顎をあげ眼を半眼にする。
「おまんじゅうみたいに白い光が盛り上がるんだ。きれいでね。その下を掘ると水晶がある」
そうか、天狗の子供にはパワーが見えるらしい。その様子は蜂が紫外線を見えるのと似ているんだろう。


ルチルクォーツ勾玉
<子天狗の話>
「この中にはススキが入っているの?」玄太がいう。
「いやいや、ススキのように見えるっていうだけで、本物のススキが入っているわけじゃない」
「じゃあ、何が入っているの?」
「塩山のススキ入りはふつうはトルマリンといわれている。
植物や動物がいない地下深くで結晶するんだ。しかも大昔に」「どうやって?」
「うーん、説明するのが難しいよ。コップに塩水を入れてそのなかで岩塩が結晶するという
実験をしたことがあるかい?」「ない」
「そうか。霜柱があるだろ、あれは水が結晶して氷になったものだ」「うん」
「同じように水晶はケイ酸という物質が、ケイ酸分をたくさん含んだ熱い水のなかで結晶することでできる」
「ふーん、で、結晶って?」
「ここらにある木の机や陶器のコップや石ころや草や、
そういうモノはみんな基本的な物質が集まってできている。
そういう基本的な物質のことを分子とか原子という。
分子には同じものが手を取り合って集まるという習性があって、そうしてできたものが結晶なんだ」
 (写真はルチル入り丸玉、ルチルは酸化チタンの結晶)015


<子天狗の話>
「へーえ、水晶はそのケイ酸というものの結晶なんだ」「そのとおり」
「じゃあなんでススキが入るの?」
「おまえの質問は鋭いね。いろいろな分子があって結晶を始めるには地下の空間にたまった熱水、
まあ、ガスの場合もあるけど、熱水の分子の濃度や水温、圧力が影響する。
それぞれの鉱物が結晶化するための熱や圧力が決まっているんだ。
熱水のなかで最初にトルマリンが針状の結晶を成長させるとするよね。
そのあと熱水の温度が下がるなどして水晶が結晶を始めると、
水晶はトルマリンを取り込んで結晶を成長させるというわけだ。
いまでは水晶は土砂に埋もれているから土の中でできたみたいだけれど、
もとは地下深くの空洞にたまった、とても熱い水の中でできるんだ。
長い年月のうちに地表近くへと持ち上げられてきて、人間に発見されるというわけだよ」
「これがそれ」と玄太はいって、自分で採集してきた水晶を見る。しげしげと見つめる。
「玄太っていくつだ?」ぼくは聞く。
「人間でいうと20歳くらいかな。天狗はゆっくり成長して長生きするんだ」17-1
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小さいのや大きいのたくさんの神さまがいた時代 08:40
スモーキークォーツ
<読書記録> 
『ヴォイス 西のはての年代記供戞淵襦瓮哀Εン、谷垣暁美訳、河出書房新社、2007)を読了。
架空の大陸の西の果て地方の南のほうにアンサルという町があって、
そこにメマーという少女が住んでいる。
『西のはての年代記』第1巻から20年ほど経っていて、
第一巻の主人公だったオレックとダライがこの町を訪ねてメマーと出会う。
物語はのっけからおもしろく、ページを繰るごとにさらにおもしろくなっていった。
良寛の歌に好物のザクロを食べる歌がある。
もらいもののザクロを最初は指でほぐして一粒づつ食べる。
そのうちかぶりつき、あとは夢中で平らげる。そんなふうだった。
著者にはメマーが暮らす館や、館のあちこちにいる小さな神々、
日本風にいうなら竈や井戸や敷居の神々や、アンサルという町の繁華街などなど、
自分で思い描いた風景がみんな見えているらしい。驚きつつ本を置いた。


<過ぎてゆく日々のこと> 
子供だったころ家の中や近所には小さいのや大きいのや威張ったのや静かなのや、
たくさんの神様がいた。
井戸や竈には小さな神様がいてけがすようなことをしてはいけなかった。
敷居の神様は踏まれることが嫌いだった。
家の裏てには10畳ほどの境内を持った社(やしろ)があり、近くの辻にも地蔵を祀る祠があった。
社では年に1度か2度、夜通しかがり火を焚いて神事がおこなわれた。
お地蔵さん近くの家では老婆が集って御詠歌をうたった。
家から5分も歩けば大きな石の鳥居のあるお寺があって立派な鐘突き堂があった。
鳥居は寺院に併設された神社のものだったけれど、子供心には鳥居はお寺の門と思いこんでいた。
大人になって、たくさんの神様が町なかにいて人々と共存している風景にネパールで出会った。
夕暮れにはバターランプと線香がまざりあった匂いが路地をみたし、
祠の入り口の鐘が鳴らされつづけた。
同じような風景がル=グウィンの『ヴォイス・西のはての年代記供戮砲鷲舛れていて
心の故郷に戻ったような気持ちがした。


<読書記録> 
『パワー 西のはての年代記掘戞淵襦瓮哀Εン、谷垣暁美訳、河出書房新社、2008) 
一日のうちの長い時間を、病人のように布団にあお向けに寝て本書を読んですごした。
平均的な四六版2冊分ほどに厚い本だった。
架空の大陸の西のはずれ、南のほうで語り手は幼児のころ姉とともにさらわれて、
北と南の中間あたりの国に奴隷として売られて育つ。
姉が支配者の息子に殺されてしまい、自己喪失した語り手は意図せずに逃亡奴隷になる。
ここまでが物語の半分くらいで、ここから本書は手放しがたくなる。
昔からSFには定型化した褒め言葉がある。
本書を読めたのは大きな幸福であり、本書を読んでしまったのは大きな不幸だ。
とそういうシリーズだった。
ひとつの文化圏、大陸、惑星、あるいは星系などを想像して、
サファリパークで動物を放し飼いするように登場人物を置く。そうやって物語が進んでいく。
ル=グウィン(1929-2018)のような作家には特殊な映像記憶能力・ピクチャーメモリーがあるんだろう。
語られる世界はとてもリアルだ。
ファンタジーとミステリー、空想と現実、という分類法があるし、
小説は架空の話だから読まないという人もいる。
現実が自分の脳によって認知・再構成された世界である以上、
現実もまた夢想だということに気付くのは難しいかもしれない。
(エレスチャルやスモーキーに眼をむけると別の土地に入っていける)017/3
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 5/19-27 2018 08:40
ピクチャーストーン丸玉
ピクチャーストーン丸玉
★5/19<過ぎてゆく日々のこと> 
ことのほかファンでいるのだが、世間的にはさほど人気がないアイテムに
ピクチャーストーン丸玉というのがある。
人類が誕生する以前の時代、精霊たちがおだやかに暮らしていた時代があった。
彼らのなかに絵描きの精霊がいて彼/彼女たちは、やがて来る人類がそれに気付くことを見越して
石の中に絵を描き残していった。あるいは自分たちの楽しみで。
あまりにも昔のことだし、精霊にも寿命があるので、彼らはもういない。
石に彫りこまれた入れ墨は、芯の芯まで墨が入っていて途切れることがなく、
切断面をかえるだけで図柄が変化する多元絵画となっている。
ひとつの球体に千の図柄が埋もれているなんて人知では理解かなわぬ技ではある。 3-18-3


★5/26<過ぎてゆく日々のこと> 
カラスがなにやら白いものをくわえて丘陵の茂みに入っていく。
可愛い子たちを夢見て巣作りに忙しいのだろうか。
アジアのモンスーンの匂いがする空気のなかでは時の流れが止まってしまう。
カラスだって止まれと命じるなら、空中に静止する勢いだ。
雨は降りそうで降らず、空は薄雲におおわれて乳白色に光っている。
遠くの道路をゆく車列のくぐもった音が丘陵の樹影を洗う。
頭のなかではあれをやってこれれもやってと、頼みもしない秘書のスケジュール管理が忙しい。
今日の予定ではアンバーやラリマーのルースを撮影して、
ホームページ掲載用のコメントを書くことになっている。


★5/27<過ぎてゆく日々のこと> 
午前10時の日差しのなかで丘陵の緑が濃い。
チューブから出した絵の具を指に盛ってキャンパスに塗りつけたかのように、
マラカイト色したりエピドート色、ペリドット色した木々がそれぞれに茂みを作り、
緑の塊となって陰影をきわだたせている。
そのどこかでホトトギスがしきりと鳴いている。
ホトトギスがつづけて鳴くと心穏やかではいられなくなる。
夏が押し寄せてくる気配に身体が押される。
夏が来るからといって特別な褒美があるわけではない。
去年や一昨年(おととし)と同じでカエルのように背中を汗でぬらして暑さにめげる、
そうした日々があるばかりなのに、いまの季節の夏が来るという感触には特別なありがたみがある。
夏がくればそこらじゅう全部が南の島と化して、
生きていることの哀しさから解放されるかもしれない。
身体がおおきなものへと溶けていく官能性がひろがる。
その彼方に天国の門がみえる。

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天狗もキツネも天然石も敬意を抱いてせっする 10:12
日本翡翠本勾玉<天狗の話> 
随分と以前のこと、サーンキヤという古代インドの思想体系に熱中した時期があった。
眼鏡を新調すると、眼にするものことごとくにピントがあって、周囲がくっきりはっきりしてくる、
そんなようにサーンキヤ眼鏡で世の中をみることがおもしろくてしかたなかった。
その時期、原稿を書いたりメモを作ったりしていてふときづくと、
ついさっき観音を着ていたと感じたことが何度かあった。
アステカの神官がヒョウや人間の毛皮を頭からかぶって上半身を覆うように観音菩薩を着る。
歓喜渦巻く法悦からはほど遠く、ただそういう体験をしたというそれだけのものだったが、
サーンキヤについて観音の同意を得られたようで嬉しかった。
「憑く」というのはそんなふうで、ダウンベストを着るように
身体に自分のとは異なる霊体を付けることであるらしい。
神霊が付けば暖かく厳かだったり、香しかったりするが、
亡霊や下卑た動物霊が憑いたりしたら、おもだるく、うっとおしく、やるせなくてやりきれない。
パワーストーンのパワーを身体に付ける感触は憑霊とはだいぶ違う。
眼から下腹に石の気、ないし気配が降りてくる。水に砂糖水をまぜると微妙なさざ波模様が見られる、
そんなふうにそれは下腹にたまっていく。
そのパワーはてのひらから出すこともできる。練習すれば誰にでもできる。
(写真は日本翡翠原石、石や木を人のように見なして向き合うと「気」がわかる。)3-18-3


豊川稲荷
<天狗の話> 
以前月ごとにひとりづつ霊能力者を取材していて聞いた話だが、
憑霊には憑かれる側と憑く側にそれぞれの理由がある。
プロの霊媒は開いたり閉じたりできる霊媒チャンネルをもっている。
にわか霊媒とか霊媒体質の人たちは開きっぱなしで閉じ方を知らない。
人生が思うようにいかなかったり寂しかったりすると、誰かにかまってもらいたい思いが強まる。
そいう時期に霊に憑かれることが多いという。憑くほうの霊にも様々な事情がある。
死に切れていないと毎日が辛い、助けてくれそうだったり自分のことをわかってくれそうな人を見つけて、
その人に私に気付いてくださいといって憑く。
寄る辺がなく心許無いキツネ、タヌキも事情は同じだ。
たとえば稲荷は熱心に信仰すると眷属のキツネ霊を一体貸与してくれる。
願望成就の折にはお礼参りしてキツネ霊を返さなくてはいけない。
おこたるとキツネ霊は帰るに帰れず行き場を失う。
そうやって信者の祖父が死亡して信仰が中断した家庭では、キツネ霊は野狐になって、
いくらか霊的感性がある息子の嫁とか孫を選んで憑く。
憑かれた本人は肩に霊を背負って重く息苦しくやるせない。
心は病んで精神病類似の症状を訴える。
病院へいくとなにがしかの病名とたくさんの薬が処方されることになる。
(写真は豊川稲荷の奉納されたキツネ像。願いかなった信者が返礼していく)hp用015

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神霊も浮遊霊も同じように「パワーは外からきて身に付く 10:20
t
<天狗の話> 
キツネ憑きというのがある。聞きかじりだが、稲荷の手下で不良化したのが人に憑依するという。
流れの野狐(ヤコ、キツネ霊)というのもいるらしい。 
「パワーは外からきて身に付く」原理で、霊媒が神霊を宿して託宣するのも、
怨霊やら浮遊霊、生霊(いきりょう)がついて神経衰弱になるのも、野狐が憑くのも同じ理屈だ。
芸術家はミューズ(芸の女神)を憑けることで天才的力量を発揮でできる。
酒精を宿せば陽気になる。などなどというのと同じ理屈だ。
パワーストーンからパワーを得るというのは石に内在しているパワーを身体に付けるとか、
自分に感染させるということで、これもまた同じ原理が作用する。
(パワーが入ってくる感触は実感できる)。
キツネ霊が憑くと、罵詈雑言わめきちらしたり、理屈にあわないことをごり押ししたり、
何日間もむっつりとだまりこんだり、暴飲暴食に走ったり、女狂い・男狂いして
四六時中セックスのことしか考えなくなったりするといわれてきた。
精神的を病むのと同じだから稼業は傾き、職を失い、家庭は崩壊、一家離散する。
以前に女性議員が男性秘書をパワハラした事件があった。ニュースで女性議員の罵倒の声をきくと、
まったくもって典型的なキツネ憑きであると思えた。
クダギツネというのも人に憑くのだろうか。
福徳を運んでくるクダギツネはどうすれば厄の神に変じるのだろう?


<天狗の話> 
天狗から飯縄権現、ついでイズナ(飯縄)使いへと興味がひろがってゆくばかりだ。
イズナとキツネがどう違うのかよくわからない。
飯縄権現の本体とされるダキニと自分イメージのインド産ダキニとは大きな隔たりがあるようだ。
面倒がっていてはいけないと、山の倉庫にいって書架から、憑きもの、もののけ、狐憑き、
クダギツネ、などの関連本を抜き出してきた。古い資料なので覚えてはいなかったが、
ずるずるとつらなって20数冊を机に積むことになった。
なかには『日本呪術全書』とか『憑物・呪法全書』などという不気味なものがあるし、
『神通自在霊狐使用口伝』という実用書もあった。
日本中の有名稲荷を連呼する経典、有名天狗の名前をひたすらに並べた経典もあって、
闇の世界に分けいる気分はいささかおどろどろしい。
2日間の昼と夜をまるまるクダギツネの研究に費やした。
世の風潮としてはキツネ憑きは迷信の烙印をおされてしまっている。
それでも職業的霊能力者たちはそれなりに需要があるようだし、
霊視能力に目覚める人たちは後をたたないようだから、霊的世界がまるっきり拒絶されたわけではない。
いまにキツネ憑き症候群というのがSNSあたりから広がっていっても不思議ではない。
(写真は高尾山でいただいてきた飯縄権現のご神影)


<天狗の話> 
「クダギツネには良いのと悪いのがいるのか?」話のついでに玄太に訊いてみる。
「クダギツネはクダギツネで良いのも悪いのもないよ」
「だって人間をお金持ちにしたり貧乏にしたりするだろ?」
「ああ、それはね、パワーはひとつだからいいほうにも悪いほうにも使えるということだよ」 
イズナ使いは不幸にしてやりたい相手を見定めると、クダギツネを1匹ないし数匹相手のもとに送りこむ。
と玄太はいう。派遣されたクダギツネは相手の家に住み着いたり、相手に憑く。
相手はそんなこと知らないから、クダギツネがおなかをすかせてもかまってやらない。
クダギツネはじわじわと相手の福徳を食う。相手は気持ちが不安定になっていく、
怒りやすくなり、仕事に身がはいらず、ついには酒・ギャンブル・女に狂って、家庭も崩壊していく。
祓うにはどうすればいいかをきく。修験の行者に祈祷してもらう、行者は天狗に頼む、天狗が祓う。自分で祓うには手洗いの桶を頭に乗せて川の淵など冷たい水に入る。
水のなかへ身体を沈めるにつれてクダギツネは腹から肩へとのぼってくる。
桶に入ったら桶ごと川に流せばいい。
「でもこれにはね、そのための呪文がある、クダギツネを霊視できなくてはならない」と玄太はいう。
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霊獣・クダギツネは愛と富を運び敵を滅ぼす   10:05
日本翡翠本勾玉
<天狗の話> 
山の家では深夜のナイトウォッチングは趣味といっていい。
カーテンを気持ち開いて街灯に照らされた道路を見る。
10時を過ぎたあたりで車両の通行が途絶える。代わってイノシシやタヌキを路上に見れる日がある。
何回かに渡ってテンを見たし、キツネらしき獣を見たこともある。
その夜は湿気が強く空気が重かった。
道路を眺めてしばらくして山側の端を移動する青白い光に気付いた。
小さな獣は黒いかたまりにしか見えない。目を凝らして眺めると、
ドブネズミくらいの大きさの動物が合計して5匹いた。
それぞれがが口に青白く光るものをくわえていた。
骨が燐光を発すると聞いたことがある。それかもしれない。
彼らは一列縦隊になって、里のほうに向かって歩いて行った。
最後尾の一匹が歩みをとめ、首をめぐらせてぼくのほうを見上げた。
気のせいだと思うが目が合った。見てはいけないものを見た、
見られてはいけないものに見られた、感じがした。血の気が抜けた。
そのときはそれがクダギツネと知らなかった。でも絵描きさんの話を聞いた今では、
それこそがクダギツネだったとわかる。
(神秘の世界に降りていく途中に「悪意」と出会うことがある。
そんなときは翡翠勾玉のようなお守りが欠かせない)


<天狗の話> 
飯綱権現の秘法を「飯綱法(いづなほう)」というのだと絵描きさんは言った。
クダギツネ(イヅナともいう)を授けてもらう呪術だった。
キツネといっても小さなイタチのようなもので、それを長さ20センチほどの竹筒で飼う。
すると未来を予知して教えてくれる、財産も集めてくるようになってイズナ使いの家は富む。
「ヒキュウみたいだ」ぼくは言って、絵描さんに説明する。
確かに似ていると彼は言う。けれどクダギツネは狙った相手を貧乏にしたり不幸においやることもできた。
たとえば他人の田畑を欲しがるとする。クダギツネを使えば相手一家を離散の憂き目にあわせられた。
そのうえで土地を手に入れられた。だからイヅナ使いと噂されるだけで、
当人は村人から嫌われ、村八分にされるということもおきた。
「飯綱法」は邪法として禁止された。けれどいまだにクダギツネのせいだと思わなければ
納得できないようなことが、ときおり起きる。世の中は理屈だけでは計れない、
そんなふうなことを絵描きさんは教えてくれた。


イエロージェード大型勾玉
<子天狗> 
「この勾玉って大きいね」撮影用に出しておいたイエロージェードの大型勾玉を見つけて玄太がいう。
「それに金色にひかってまぶしい」
「うん、大きな勾玉だね。写真を撮ったら仏壇に供えようかと思っている」
「おいらのお師匠は勾玉好きで、杖のさきにたくさんの勾玉を付けているけれど、
こんなに大きな勾玉は持っていないよ」。
黄色の勾玉が光ってまぶしい?「この間から不思議に思っていたけれど、玄太には紫外線がみえるの?」
「紫外線って?」「ああ難しいね」
言葉のはしばしに浮かぶ彼の世界の見え方と自分の見え方はだいぶ違う感じがする。
そうやってふいに気付く。世のことどもを自分が見ているように他の人たちにも見えていると思うのは、
暗黙の合意に基づく思い込みで、ぼくたちはそのやり方を学ぶのにたくさんの時間をかけて育つ。
自分が見えているように他人も見えていると思うのは、そう思い込んでいるから、
そう見えているだけのことだ。
「難しいことを訊いてしまったな、うまく説明できないよ」ぼくはいう。
「おとうがいうには人間と天狗では世界の見え方が違うらしいよ」「きっとそうなんだろうね」 
「ときどきおとうは、人間たちは自分が見たいものしか見えない、というようなことをいうよ。
だからしょっちゅう思い違いしているって」
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ  5/17−19 2018 10:07
ブッダ
5/17<過ぎてゆく日々のこと> 
早春3月には梅の花に酔い、4月には桜と桃に狂い、5月も半ばをすぎると緑の濃さに忘我する。
小さな線香花火が千万とか億とかいっしょになってはじけるように陽光がきらめき樹影の濃さをひきたてる。
永遠が一瞬に凝結し、一点から無限が広がっていく。そういうイメージを脳はよろこんで引き受ける。
光線の一粒一粒がモノノケ素粒子でコズミックダンスを踊っているなら、こんなにすごいことはない。


5/17<過ぎてゆく日々のこと> 
ブッダの彫像に忍びよってブッダを着るという遊びをした。
良寛もどこかで一人遊びが得意だと書いている。


5/19<過ぎてゆく日々のこと> 
JR総武線の電車に乗っていた。7人がけシートの端に座っていた。
途中駅でたくさんの人が乗ってきた。
なかに両脇を白い服を着た男女にかかえられた女性がいてぼくの前にたった。
40代でホーキング博士のように顔面が麻痺していた。全身も麻痺しているようだった。席をゆずった。
彼女が神であることがわかった。ひざまづいておがみたい気持ちになった。
車内は込んでいてそんな余裕はない。どうしようと思っていうちに目が覚めた。夢だった。
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女神ダキニは日本にきて山の神に習合した 08:24
山の家
山の家
<天狗の話> 
おさらいをするとインドにはドラビダ系先住民とアーリア系移住者のふたつの流れがある。
北のほうではドラビダ系がインダス文明(BC2300-BC1700)を築いた。
先住民の多くは母系社会で女神信仰を主とした。後者は父系の祭祀主義でバラモン教を信奉した。
紀元前500年あたりに仏教が始まった。
紀元前後以降仏教は土着信仰をとりこんで大乗仏教を発達させていった。
シンプルだったブッダの教えに多数の如来・菩薩・神々が参加することになった。
その後仏教はさらに呪術色を強めて密教を発展させていった。
同様にバラモン教は全インドの雑多な神々を融合して、国民宗教としてのヒンドゥー教になっていった。
仏教とヒンドゥー教で神々を共有しているのはそのためだ。
ダキニ信仰はインドからチベットに伝わり。かの地でいっそう重要な女神になった。
チベット密教では女性修行者もダキニとみなされる。ダキニは男たちを神秘的世界にいざなう。
こうしたわけで高尾山の守護神・飯縄権現にはインドの神々の血が宿っている。


<天狗の話> 
天狗について考えているうちに気付いたのだが、
日本神話の女神たち、なかでも水に関連した女神たちは仏教隆盛のもと、
ことごとく弁財(才)天に習合していった。
港が津とよばれていた古い時代、津津浦浦に土地の女神がいた。
彼女たちは宗像三女神に統一されていった。
海辺に竜宮伝説があれば祀られる女神は豊玉姫と玉依姫。
川の女神はミズハノメ。うりざね顔して清楚で美麗。
峠の分水嶺は水分(ミクマリ)。おかっぱ頭の美少女。みんな弁財天に同化させられた。
これに対して山の女神にはダキニが習合したのだろう。
山の神は春先には里に降りてサクラ(桜)に宿る。「さ」は辞書に稲魂とある。
早苗は稲魂を宿す苗。「くら」は倉、宿り蓄える場所。稲妻(夫)と交歓して稲を実らせる。
山の女神は欲情する女神、孕む女神、産む女神、死(実り)と再生の女神、
武士や僧侶や儒教学者には理解が及ばない。
古い時代には山の神を興奮させるために歌垣が催された。
こんなところがインドの農民たちが信仰したダキニと似ていた。
狐は稲作の敵・ネズミを捕食するから山の神の眷属になったという。


<天狗の話> 
子天狗の玄太がランドセルの蓋を開く。手をいれて卵くらいの大きさのジャガイモをとりだす。
「ほらっ」と得意げにみせる。割れ口からふたつに分かれてジオードであることがわかる。
ひきとって眺めると、小粒で藤色をしてキラキラと輝くアメシストがびっしりと内側をおおっている。
さらによくみると片側の中央のアメシストが一部色抜けして三日月の上に点がのった形にみえる。
「ああ、すごくきれいだ。それにビンドウ入りだ」「ビンドゥって?」
「ほら、この白い点。ビンドゥは点って意味だ。宇宙の始まりを表わす特別な点だ。
下の三日月は神さまがこれを受けていることを意味している」
「価値あるね」「うん、とっても。これもおとうにもらったのか?」
「うん、おとうはこういうのを100個くらい持っている」
「そうか、すごいなあ、天狗というのはみんなが石を集めているのか?」
「そでもない、おとうの友だちには頭蓋骨のコレクターもいる」
「頭蓋骨? ほんとか?」「昆虫の頭蓋骨だよ。取りだすのが大変なんだって」
「へえ、……ところでさクダギツネというのを知ってるか?」
「知っているよ、けど、人間たちに知られるようになってあれは悪くなった。
いまでは天狗はあれを使わない。おじさんもクダギツネには近寄らないほうがいいよ」
 なんだかヤバイなあ。ますますヤバイと思った。
(5月のお山には生命の気配、モノノケがわきたつ)

| 過ぎてゆく日々のこと | comments(0) | trackbacks(0) | posted by YK
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