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<過ぎてゆく日々のこと> 三種神器・八尺瓊勾玉と新元号と万葉集のことなど 09:52
日本翡翠勾玉
★ 4/19<国の石・日本翡翠勾玉> 
天皇の伊勢神宮参拝をテレビのニュースでみた。
三種神器の剣と勾玉に前後を守られて拝殿に入っていかれた。
剣は道を開く、勾玉は後方の守り、国を守り家族を守り自分を守る。
三種の神器の場合、剣は宝剣・草薙剣とよばれ、勾玉は神璽(しんじ)で
八尺瓊(やさかに)勾玉と命名されている。
この国では天皇について書こうとすると右翼的になってしまう。
戦前の皇国主義と戦後の反動とで、自分たちの神話を子供たちに教えられないままでいる。
ここでは右も左も道を誤っているようにみえる。
自分たちのクニの神話を、たとえそれが1500年ほど前に、権力者たちに都合のいいように
まとめられたものであっても、子供たちに教えることができる時代になればいいのにと思う。
神話のないクニではアイデンティティもいびつになる。
一家にひとつづつ国の石・日本翡翠の勾玉があって、自分を大切に思い、家族を大事に思い、
土地を愛する気持ちが、そこに凝集されているとみんなが思うようになるといい。016-2


★ 4/19<石ヤ風新元号> 
3ヶ月もすれば新元号を忘れてしまう。日常的には西暦だけでも不便はない。
でもいまは新元号はできたての草餅みたいな湯気がたっている。
出典が万葉集からというのが気持ちいい。万葉集ファンだった良寛も溜飲をさげているだろう。 
あらためて『万葉集』(伊藤博訳注、角川ソフィア文庫、2009)を開くと、
話題の文言は和歌ではなく、梅の花特集32首の序文であることがわかる。
ケチつける気は毛頭ないが「令和」は造語であることもわかる。
  時に、初春の令月にして 気淑(よ)く風和(やはら)ぎ
  梅は鏡前(きょうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、
  蘭は珮後(はいご)の香を薫(くゆ)らす
「珮(はい)」には石ヤ風解釈&蘊蓄が必要だ。辞書をみると、帯玉、腰につける飾り玉とある。
昔の中国では玉(ぎょく)製品に紐をつけて腰に飾るのが流行った。
江戸時代の印籠や煙草セットのように使用した。
いまでも中国から入ってくるガマやヒキュウなど小動物の彫像には、
何がなんでも紐を通す孔が開いているのはその名残だ。この風習は日本には伝わらなかった。
「珮後(はいご)の香を薫(くゆ)らす」というのは、貴人が通ったあとに匂袋やら着物にたきしめた
香の匂いが残るというようなことをいうんだろう。
時あたかも早春2月(いまの3月ごろの陽気)、「気」は清くして風やわらぐ。
梅は化粧の白粉をはたいたように咲き、蘭は貴人の残り香さながらの香りをただよわせている。
私鉄沿線の観光ポスターのキャッチのようではある。
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 4/01-08 18:37
フローライト
★ 4/08<続・玄太の父との会話> 
実りのない人生について、クリシュナムルティの言葉を探してきた。
たとえばガンジーは晩年には夜毎に美人の看護婦と添い寝したといわれている。
性交渉はなく禁欲主義を破ったわけではないという。
それに似たスキャンダルがクリシュナムルティについてもある。
ひとまずそれらを棚上げして、彼は人類の教師だった。彼の『最後の日記』には以下のようにある。
「年とった男や女を見るがよい。なんと老衰し、迷い、不幸で醜くみえることか。
それは生のことも死のことも実際には何も理解しなかったからではないのか? 
彼らは生を使いきり、自己、「わたし」、自我を育て、それに力を添えるだけの絶えまない葛藤によって、
自分たちの生を浪費しきるのである。時には歓びや楽しみもあるが、われわれは酒を飲んだり、
煙草をすったり、夜更かしをしたり、仕事、仕事、仕事で、さまざまな葛藤と不幸せの中に毎日を過ごす。
そして一生の終りに死と呼ばれるものに対面し、それを恐れるのである。
死は常に理解しうるし、深く感じ取れるものだと思う。」p-196
(中国産フローライト原石、88mm、563g)4-19-2 776



貝化石
★ 4/01<過ぎてゆく日々のこと> 
集合写真シリーズをはじめたらたくさんの話題が目白押し。
倉庫からサムネールボックス・サイズの鉱物標本を持ってきて、逆光ぎみの窓辺にザラザラとあける。
カメラを近付けるだけで、まあまあ様になる。ここでのテーマは石ヤの職業内容に興味がある人や、
これから天然石とかかわっていきたい人たちになにがしか役立てばいいと思っている。
石ヤの友人の弁によると、石ヤには天然石を商品としてしかみない人たちと、
石を愛して夢中になれる人との2種類いるという。
この友人は前者の人たちとはかかわらないといっていた。
けれど後者の人たちはそのままだとオタクの人生になってしまう。
オタクが悪いわけではないけれど、自分は自我の枠を超えた向こうをみたい。
どんな商売・職業だって、たぶんその奥には哲学がある。
石ヤも哲学風視座のない人は退屈で、あんまりお話することもない。
たまに話の合う人に出会う。同じメンタリティだ、と喜びあう。滅多にないことだ。写真は貝化石。 2-19-1



菊花水晶
★ 4/05<過ぎてゆく日々のこと> 
プレハブ倉庫からスーチョワン・クォーツ(四川省水晶のローマ字標記)を外に出すのはけっこう辛い。
翡翠やヒマラヤ水晶が入った箱をどかし、移動させなくてはならない。どれがもが重い。
濡れ縁まで運んでボール箱から出し、エアキャップや古新聞を脱がせて、やっと対面になる。
撮影してしまうときはこの逆の手順を踏む。
疲れしらずというわけにはいかなくて、ひだまりの椅子に座る。陽光を顔に受け腕に受ける。
ガヤトリーマントラのイメージ想起が不慣れであるなら、日光浴の感触を観察して、よく覚えておいて、
呼びだせばいい。と思って見る。
未経験のものを想像するのは難しい。見知ったものなら思いだして呼び出すのはさほど難しくない。
チャクラとクンダリニーも同様で、それらについて十分に学べば、やがてチャクラがわかるようになる。
自分の身体と意識を統合してゆくシステムであることがわかってくる。
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■<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ・ 玄太の父との会話   08:32
フローライト
★ 4/06<玄太の父との会話>(ちょっと長いけれど大事なことだから)
あるとき玄太の父がぼくにいう。毎日をむなしく過ごしている人は少なくない、と。
このインタビューは高尾駅南口のモスバーガーでなされた。
昨日も今日も同じような日々がつづくと、生きていることに飽きてしまう。問題はそこにある。
飽食と倦怠、惰性ゆえの怠惰さが身体につきまとうようになる。
ぬけだすのは難しく、目先の新しさを追いかけてもすぐぶりかえしてくる。
心の奥のほうで諦めが育っていく。生命が浪費される。
やがてそうとは気付かぬままに静かな絶望を受け入れる。
日々の営みに流されてしまわないためには、知識を学ぶこと、経験を深める、技を磨く、
思索することが大事と教えられる。趣味に生きがいを見つける人も多い。
けれどそれだけでは不十分。精神世界的には大きな存在へと自分を開いていくことが肝要で、
それによって自我を深める、自分を超えていく、ということがわかる。
新しい自分をみることができる。生きていることのリアリティに触れられる。
たとえば木に向かう。木を感じる、木といっしょになる。
その感じがつかめれば、山といっしょになれる。大空といっしょになれる。
そうやってそこにある大きな力と出会える。 
人間たちの宗教はこの大きな力を人格化して名前をつけ、
もろもろの事象同様、自分と対立する存在としてきた。けれど対立すると相手は遠のいてしまう。
対立しないでひとつになることで、魂の充足とか、日々の営みに流されない術(すべ)がわかる。
この大きな力は感じることが難しいなら、想像することでそこに近付ける。
(高尾駅はJR中央線を新宿から40分あまり甲府方面へ向かったところにある)


★ 4/06<続・玄太の父との会話> 
大きな力、大きな存在と出会う。
この問題はたとえば心理学ではトランスパーソナルの重要テーマとなっている。
その幾らかを拙著『宮沢賢治と天然石』(北出幸男、青弓社、2010)では扱った。
石を見て見入って魅入ることで向こう側に触れられると。
大きな存在と出会うことで自分を超えていく方法があることを発見する。
あるいは人生を浪費してしまわない生き方、自分を閉じてしまわない日々の過ごしかたを見つける。
今日の社会では、僧侶や神職者たちからはこれらのことを学びようがない。
心身医療の従事者たちの多くは変性意識がいかなるものかを理解できていない。
いかに生きるかは、いかに死ぬかということでもあるので、
末期医療や老人介護においてトランスパーソナルな視点はとても重要だ。
個人的な願望としては、ヒーラーや占い師といった人たちが、神秘について学び、
精神世界の新しい指導者となるよう願っている。
たとえば易やタロットは向こう側とこちら側との関連性を解く技法だった。
4-19-2
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■<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 4/02-11 2019  09:28
ア字
★ 4/02<ガヤトリーマントラ> 
3/31のつづき。ガヤトリーマントラは太陽神サヴィトリを賛美し力添えを願う真言。
旋律(詩)の形態から、ガヤトリーマントラとよばれる。
『リグ・ヴェーダ讃歌』(辻直四郎訳、岩波文庫、1970)には、訳文が以下のようにある。
「われら願わくは、サヴィトリ神のこのめでたき光明を享受せんことを、
その彼はわれらが詩想を助長せんことを」p34
バラモン教の根本原理ブラフマン(梵我一如の梵)が神格化されてブラフマー神となったように、
ガヤトリーも神格化されてブラフマーの妻になった。
密教では身口意という。神・仏に祈るには、
,修凌席を象徴する「印」を組んで、自分の身体が神仏に同化していうようにはかる、
口にその神仏を象徴する「真言」をとなえる、なるべくありありとその神仏を想像する。
そうやって自分の身体と心をひとつにまとめて、神仏を如実に感じられるように自分を整える。
般若心経も唱えるだけでは価値がない。意味するところを瞑想することで意義が生じる。
黄金に輝くサヴィトリ神の光輝が手指の先からつま先まで、身体に満ちると想像することが
ガヤトリーマントラのかなめだ。
サヴィトリ神が大日如来やブッダに変容してもかまわない。017/2

山の家
★ 4/11<過ぎてゆく日々のこと> 
昨日のこと。目覚めたら雪が降っていた。
季節外れの淡雪でカメラを向けても雪と分かりそうになかった。
それがコーヒーを淹れるころにはポッポ、ポッポと本降りになった。
水気を含んだ重い雪が杉や檜にたまり、新芽が萌えいだばかりの雑木の枝に積る。
ミツバツツジやレンギョウの花が砂糖菓子に化ける。咲き始めたばかりの桃の花を氷の綿毛で包む。
あたり一面ジャクソン・ポロックがたちうちできないほどに激しくジンクホワイトをまき散らし、
掛けちらして、春の白い狂気は2時間ほどで過ぎていった。
山の倉庫ではたくさんの荷物を受け取る特別な日だったので、
山の精霊たちに祝福されているようでもあった。

ツツジ
★ 4/11<過ぎてゆく日々のこと>
2階の北向きの部屋の窓をあけて裏山に降りつのる雪を見た。
関東では雪はめったに降らないので珍しくてしかたがない。
雑木でおおわれ、モノトーンとなった斜面一面に雪がふる。
深海に降るマリンスノーンそのままに、上空のどこかでわいた雪が上から下にふりつづける。
寂莫とした思いに石笛の音色が屏風となった山肌を伝わっていく、とそんなことを思う。
玄太が両肘を高く揚げて石笛を唇にあてている。氷のように澄んだ音色が流れでる。
あのように小さな穴一つで横笛で雅楽を奏でるのと同じように多彩な音をだせることが不思議だ。
音色には艶があり彩りがあった。
玄太の父に玄太が石笛をふいていましたといったことがある。
「石笛は天狗の素養なんです。修験の方はホラ貝がお好きなようですが」彼は言った。
石笛の音は身体にしみいり、首尾よく烏(カラス)に変じた自分が、
生命(いのち)が途絶えた風景を切り裂いてさらなる上空へと飛んだ。
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 3/28-30 2019   08:23
マウシッシ
★ 3/28<緑の鉱物> 
緑と人間の関係を夢想する。2000万年はあっというまで、ヒマラヤ山脈が隆起して、
チベット高原が生まれ、日本列島が大陸と袂をわかったころ、
人類はいまだキツネザルみたいな原始哺乳類だった
。夜行性の彼らは緑の枝葉に身をひそめて、そこに憩うことを覚えた。
緑=安息という思い入れが形成され、遺伝子に刻印された。
人類の時代になって森林から草原へ生活環境がかわって、2足歩行が始まり直立できるようになった。
緑の草原の灌木のもとや丈たかい草むらは気持ちを安らがせる場所だった、
繁殖行為にてきした場所であり、集団で暮らすことのストレスを癒す避難所だったような気もする。
緑は癒しの色、「気」を下げて気持ちを安らがせる色になった。
緑の石に気持ちをゆだねることを学ぶと、気持ちが華やぐこともわかる。


★ 3/30<過ぎてゆく日々のこと> 
コンクリートのアパートの窓の向こうの古墳風丘陵の木々が萌えいでいる。
その合間合間に山桜の花の薄いピンクが集っている。
日本の伝統色に一斤染という色名があっって薄い紅色をさす。
色そのものよりも名称が気に入っている。
山桜の薄紅色は一斤染よりさらに淡い。
黒い幹とほんのりと赤みをおびた白い花の群れの取り合わせが絶妙と思う。
梅の花が終わって桃や桜の花が咲く。あんなに梅の花に夢中になって、
今生の見納めとばかりに恋焦がれていたのに、てのひらを返したように桜を賛美するのは、
若かった時代にあちらやこちらの女の子に夢中になったのと同じで、あまりに節度がないと思う。
きょうは花冷えの曇り空。電気ストーブなしでは足下が寒い。
ダウンベストのポケットに両手をつっこんで山桜をみている。


★ 3/30<過ぎてゆく日々のこと> 
加齢のせいだと思う。明け方5時、6時に目が覚めてしまう。
たいがいは愚にもつかない夢に囚われている。夢を払拭するためにトイレにたつ。
布団にもどっても寝付けない。仕方がないとあきらめる。
身体を脱落させて(自律神経訓練法ともいう)呼吸法をやったり、マントラをとなえたりする。
インドでもっとも知られているマントラのひとつに「ガヤトリーマントラ」というのがある。
太陽光線を神格化したサヴィトリーという神に捧げられた定型詩で、
「天・地・人の世をあまねく照らすサヴィトリーよ。そのたぐいまれな光輝を瞑想します。
われらの智慧も輝きでみたされますように」というような意味になるという。
「天と人と地を照らすサヴィトリーよ、わが身体を光で満たしたまえ」というふうに縮める。
そうやって身体が金色に満ちるのを待つのだが、
イメージ想起が苦手で、これがなかなかに難しい。017/3 017/2
(写真はマウシッシ原石、コスモクロアともいう)
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ  3/12-23 2019 08:36
フローライト
★ 3/12<グリーンフローライト> 
小物の集合写真ばかりではなく、たまにはドーンと一発大きい奴を。
写真では大きさを想像しにくいのですが、DVDレコーダーよりひとまわり大きく、
左右に約47cm、奥行き34cm、高さ10cmほど。重量17.5kgの中国産グリーンフローライトの群晶です。
ピラミッド型や四角形の結晶がいっぱい群れています。
実店舗では棚の下の方の目立たない場所に展示してあったので、
この立派さを賛嘆する人はほとんどいませんでした。
実店舗閉店後の倉庫の整理は、1年以上経ってやっと、
大きな鉱物原石のひとつふたつの梱包をとくことができるようになって、真っ先に開いたのがこれ。
神秘なまでに美しく、立派で、雄々しいくせに、静かにただずんでいるような雰囲気がスマートです。3-19-1

ふろーらいと
★ 3/23<過ぎてゆく日々のこと> 世界を「生」と「死」に二分する。
樹木は生命(いのち)あるものの代表で、鉱物は死んだものの大部分を構成している。
それでもって眼を宇宙に転じる。太陽系宇宙でもいいし、銀河系宇宙でもいいが、
そこには膨大な「死」がある。「生」は「死」の特異な局面であることががわかる。
樹木、草花に惹かれるのは生命あるものを慈しみたい気持ちのあらわれとみるなら、
鉱物への耽溺は死へのあこがれと思えなくもない。
「死」の彼方には甘美な静一さがあり、「生」の極限には歓喜がある。あるいはと思う。
植物たちへのあこがれは、動物たちのようなさわがしい生命ではなく、
静かな「生」を通じて「死」へと跳躍していきたい願いなのかもしれない。
現代文明はやみくもに「死」を恐れている。
病院や介護施設にそれを隔離して、なるべく見ないようにしている。
いい子に育った大人たちは「死」と聞くだけで顔をそむける。
けれど「生」と「死」をともに愛する、あるいは敬うマルチチャンネルを手に入れるなら、
呪術師の沃野に到達できる。


へきじゃ
★ 3/23<邪眼と辟邪> 
日本ではあまり話題にならないが、インドや中近東、欧州など世界各地で
「邪眼」は不幸・災難・病苦のもとと恐れられてきた。
お守りのほとんどは 「邪眼」を避ける辟邪の願いをこめて作られてきた。
邪眼(よこしまなるもののまなざし)は悪霊や悪意のある精霊のまなざし(目差・眼指)で、
四辻や人込みのなか、玄関先や窓際など、そこらじゅうにいる。
あなたを妬みのまなざしで見る人や、かげでこそこそとあなたをそしる人の悪意も邪眼になる。
邪眼は気持ちがゆるんだり、うっかりしている隙を突いで攻撃してくるので防ぐのが難しい。
しかし最初の一撃をかわせば避けられる。そこで邪眼よけのお守りの出番となった。
邪眼にはキラキラ光るものや、人や動物の目をつい見てしまう習性があるので、
美しい宝石や目玉模様のアクセサリーが護符として重宝されることになった。
ジービーズ、パムテックビーズ、天眼、アイビーズ、など目玉模様には、こうした意味があって、
他者の悪意から自分を守るのに役立っている。2-19-4
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 3/15-21 2019 08:41
梅★ 3/15<過ぎてゆく日々のこと> 
眠るまえに心身脱落ということをやる。心の脱落は難しい。脳のなかに「無」の空間が広がるのをたまに見る。
けれど身体の脱落は少し練習すれば誰にもできる。
それでもって眠りにおちる刹那の「時」に立ち会いたいものだと思う。
雑念とともにある自意識が眠るという行為によって消える一瞬、その地点を見極めることができるなら、
その瞬間に開く時間の裂け目から向こう側へとジャンプできそうな気がする。
こういうのはみんな妄想で、自意識自体が脳のシナプス集合体に浮く
ホログラムのようなものなんだろうけれど、シャーマンたちは向こう側を、
こちら側よりもはるかに親しみのある存在と思ってきた。
目覚めているときと眠るときとの境界、その刹那に意識は死を超離する、
とそんなふうな妄想はそうとうにシュールでマニアックだ。2014


梅
★ 3/18<過ぎてゆく日々のこと>  
冬が終わってしまった寂しさにやっとなれて、きょうは渓流の土手の紅梅を堪能した。
おまえときたらほんとうに美しいね、と話すことができた。
家のまわりにはやたらにあちこちと白梅や紅梅が咲いている。
毎年同じことだと思いながらも、カメラをむけて何枚かを撮影した。
フキノトウは育ちすぎて食べるに失してしまった。
この時期には花壇の端に忽然とクロカスが紫の花を伸ばすのも例年どうりだ。
きょうは石ヤ関連の仕事を捨てて、ゲンタや姫神に思いを馳せることにしようと山の家にきた。
翡翠原石のチェックも本の片付けにも見向きしないで、キーボードを叩いた。
翌朝はウグイスの声で目覚めた。
雨戸を開けると道路をはさんで向かいの空き地で7−8頭のサルが餌をあさっていた。


梅
★ 3/21<過ぎてゆく日々のこと> 
10日ぶりに無精髭を剃って梅の花を見にいった。
ひとつの小山全面にいっぱいいっぱいの梅の花が咲いていた。
遊歩道が施設されていて、すごいね、すごいね、といいながら歩いた。
東京都の西の外れ、高尾山の近く、木下沢梅林という。
駅貼りの観光ポスターと同じ景色が広がっていた。

★ 3/22<過ぎてゆく日々のこと> 
良寛がよんだ梅の花3首。良寛の息遣いが感じられる。
*梅のはな折りてかざしていそのかみ古(ふ)りにしことをしのびつるかも
−−「いそのかみ」は「古り」にかかる枕詞。逝ってしまった友人と梅見をしたことをしのぶ歌とか。
*梅が枝に花ふみ散らす鶯の鳴く声きけば春かたまけぬ
−−「春かたまけぬ」は「ひたすら待っていた春が来た!」という意味という。
*たまきはる命死なねばこの園の花咲く春に逢いにけらしも
−−「たまきはる」は「命」にかかる枕詞。命をたもちえたから梅の季節を迎えられた 
(老いてからの歌なんだろう)。
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ  3/05-07 2019 10:16
コーネルピン
ペリドット
モルダバイト
★ 3/05<過ぎてゆく日々のこと> 
コーネルピン・キャッツアイの写真がピンボケだったので撮り直した。
フィルムカメラの時代にそうしていたように一眼レフに100mmのマクロレンズを付ければ、
被写体とカメラの距離が開いて、照明しやすくなるのだが、
コンピュータ関連の機器は使いやすくなるまでにたくさんを覚えなくてはならない。
それが面倒で安いデジカメから離れられない。
コーネルピンのついでだからと、モルダバイトやペリドットのルースも撮影した。
PCのモニターに並んだサムネールサイズの写真を見て、緑色の色味の多さにいまさらながらに驚く。
個人差はあるだろうけれど、人間は何色の色彩を識別できるのだろう。
どこかでそういうデータを読んだ記憶がある。
「緑」とひと縄で縛っても100とか200色はありそうだ。
このわきたって渦巻きあふれる色彩のおお鍋のなかで、まるで葉裏を点検するテントウムシのように、
石ヤはあちこちの色につかまって、日々驚きをあらたにしている。


★ 3/07<過ぎてゆく日々のこと>  
雨が物干し台のプラスチックの屋根を打つ。フライパンで胡麻の実がいられているような音が絶えない。
山霧がわいて遠くの杉木立ちが山水画になっている。
もとより人気のない田舎道が廃村そのままに静まっている。
作業机の前の窓の向こうでは紗をかけたような雨がふっている。
雨をみていると気持ちが沈んでいく。具体的にはなにがどう寂しいというわけではない、
人気(ひとけ)が恋しいわけではないけれど、寂寞とした思いがつのる。
たぶん旅人の寂しさというものだろう。
そうやって雨をみて、枯れ草のなかで芽吹いたフキノトウを思う。
彼らが健気に見えて、摘むのをためらってしまった。(雨の日は水晶が慰め)


★ 3/07<子天狗ゲンタの思いで> 
気温が急に下がった霧雨の夕方。霧が雲に育って4つ5つのダンプカーほどのかたまりとなって、
家の前の道路を下のほうに動いていった。路面伝いに這うようにすすむ雲のコンボイだった。
その雲の上に天狗の子とおぼしき3人が乗って、得意げに胸をそらせていた。
ゲンタがうちを訪ねてくるようになる半年ほど前のことだった。
まぼろしかと思って目をこらした。確かに3人の子供がいた。
けれど彼らは見られていることに気付いたのか。ふっと姿を消してそれっきりだった。
(写真は上からコーネルピン、ペリドット、モルダバイト)
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石が笑い、花が笑い、天空だってほほ笑んでいる 09:59
すたーかっと
<ローズクォーツ・スターカット> 
イエロージェードとローズクォーツの30mmスターカットを探してきた。
日本では星は妙見菩薩のシンボルで、星に祈れば妙見菩薩が願いをかなえてくれる。
ローズクォーツ・スターカットの当社風石言葉は「石にほほ笑む、身体が笑うと元気溌剌する」。
石に向かってほほ笑む。笑みを返してくれるものとそうではないものとがあるが、
ほほ笑みは頬の緊張を緩めての笑い。そのとき身体の状態を「見る」と身体も笑っている。
身体が笑っていることに気付けば、人間元来の「気」の働きも正常に作動するようになる。元気になれる。
合理的思考では石が笑うわけがない。心理学的には内面の思考やイメージの外側への投影で、
古代的には精霊との交流、ないし仏の慈悲との触れ合いということになる。
「石がほほ笑む」感じがつかみにくいのであれば、「花がほほ笑む」のを見る練習をする。
花にも笑みを返してくれるものとそうではないものとがある。
花や石がほほ笑むのがわかったら天空だってほほ笑むことがわかる。
古代的には天空にも意識がある。地球にもひとつの巨大な意識があって、
そこに満ちているのが大きな宇宙の大きな笑み、つまりは慈愛・慈悲だ。
(石はいろんなことを教えてくれる)2-19-2


水晶クラスター
<水晶クラスター> 
石がほほ笑むことがわかったら、それを受けて、自分の身体に笑みが満ちてくるのを観察する。
人は笑ったり怒ったり悲しんだりして毎日を過ごしているけれど、
それが自分の身体にどう作用しているのか、呪術師とヨーガ行者以外に観察する人はいない。
身体がほほ笑めば筋肉も神経組織もくつろぐ(肩肘はって奥歯を噛みしめなくてもいい)。
身体が笑うと脳も笑ってドーパミン回路が開く。
ドーパミンの分泌量を微量増やしてやることが自分を活性化するコツだ。
ドーパミン回路が沈静してしまうと気が滅入ることになる。
驚くことが少なく、おもしろくもない毎日を送ると、脳はやる気を失って停滞モードに入る。
あるいはにがにがしいことや苦しいことばかりを評価すると、身体といっしょに脳も萎縮していく。
ドーパミン分泌量がへると、ますますおもしろくなくなって、憂鬱さが身体を染める。
愚痴っぽく自己憐憫いっぱいの自分とつきあわなくてはならない。
水晶クラスターを用意する。石と語らうつもりになる。石がほほ笑みのうちにあることを「見る」。
再生されていく自分に出会える。3-19-1


水晶クラスター
<水晶クラスター>  
笑うヨーガというのがある。みんなワッハッハ、ワッハッハと笑うことで、
邪気邪念、鬱積した思いをはきだし、自分本来の気「元気」を回復する。
テレビで見ておもしろいことをやっている人たちがいると思っていた。そうしたら、それがまあ、なんと、
知人の相方さんが笑うヨーガのインストラクターなんだと知って仰天している。
思いきり笑うと脳はびっくりして、ほんとうに面白いんだと錯覚、前述通りにドーパミンの分泌量が増える。
ドーパミンやその類似物は脳内麻薬とか麻薬様ホルモンとよばれていて、
歓喜したり恍惚したりはこの脳内ホルモンがドドッとあふれることによる。
大けがをして痛みを忘れるのはこの作用だし、近似死体験もドーパミンが見る夢だ 
(この世とあの世の境にお花畑があるわけではない、と思う)。
瞑想は呼吸と意識をコントロールすることで脳にストレスを与え、
人為的にドーパミンの分泌量をふやす技でもある。
水晶クラスターを前にそういうことを思ってみる。
石たちとともにほほ笑みのうちに憩うなら、それだけでドーパミン回路は活性化する。
気持ちのよい時間を味わえる。そこには神秘の世界の扉が開いていることがわかる。2-19-3

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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 2/27-3/01 2019  08:55
フクジュソウ
★ 2/27 <過ぎてゆく日々のこと> 
近所に荒れた農地がある。造園業者が植木を育てる畑を放置したもので、
植木鉢が散乱し、鉢植えのサツキを並べた棚は傾き、何本もの若い樹木が立ち枯れている。
地面はイノシシに掘られて穴ぼこだらけにされ(ミミズを喰うのだとか)、枯れ草が覆っている。
その外れのほうで、黄色に輝く花を望遠できた。無断で立ち入ると、群落をなした福寿草の花だった。
早春の朝日を目一杯浴びてさん然と輝いていた。
喜びを満面に浮かべて、いまにも歌声が聞こえてきそうな風情。
このところ鉱物標本も草木も花も、形が整って美しいものをみると、
彼らが歌っているように思えてしかたがない。
ダンスできるほどに軽いジャズで作曲家や演奏者のりきみがない、
そういう音楽が黄金色の花から聞こえてくる。
笑いと愛はいっしょにいる。ほほ笑みと慈悲はいっしょにいる。
花たちは存在するものへの愛を歌っている。3-19-1


ルドラクシャ
★ 3/01 <過ぎてゆく日々のこと>  
出家前のブッダを思う。
現在のネパールの南、インドとの国境あたりに彼の父が国王をつとめる共和国があった。
今風に分類するなら彼はネパール人だ。シャカ族の国はマガタ、コーラサという強国にはさまれて
明日をもしれぬ定めにあった。戦争になれば敗退はあきらかで、一族郎党惨殺されるのは目に見えていた。
豪華な衣服、贅沢な食糧、選びたいほうだいの女たちに囲まれていても、
彼はうつうつとした日々をおくった。
なんでこんな土地に生まれてきたのだろう、生まれたいと願ったわけではない、
ここにいたいと望んだわけでもない。
ブッダ以前もそれ以降もたくさんの人がそう思ったように、
ブッダも生命があることが厭(いと)わしかった。
当時のインドは聖なる道が開かれはじめていて、出家の名のもとに、
ドロップアウトしたヒッピーを社会が養っていけるほどに豊かだった。
そうやってブッダは修行して、光のなかへ溶けていく道を示した。
ブッダの弟子たちの告白を読むとたくさんの修行者が悟っている。
その時代「悟り」にはリアリティがあった。
写真はブッダの象徴、菩提樹の実、ルドラクシャともいう。1個が50円玉ほどに大粒。 2-19-4

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