<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 3/09-3/11 2024 | 10:39 |
★3/09<ゾクチェン>
日本にいるとチベットは遠い。ごく短期間首都ラサに滞在したくらいでは知った顔もできない。
チベットの宗教について短くまとめるのは難しい。
チベットの宗教というと一般には淫祀邪教そのままのような仏像や仏画で知られていて、
そこには西洋思想よりさらに深い思想、
現代文明の閉塞感から抜け出る智慧が埋もれていることを理解されていない。
見かけの淫らさが儒教思想になれ親しんだ人々にアレルギー反応を引き起こしている
(セックスと聞くだけで、なんてけがらわしいと思うような人たちのことだ。自分も当事者のくせに)。
チベット仏教には後期インド密教をベ−スに4つの大きな流派とボン教という土着信仰が
仏教化した宗派がある。後期密教は空海が招来した中期密教以後にインドで隆盛した密教で、
母系文化の影響のもと、性の恍惚を比喩に宗教的神秘体験(悟り)を
語ろうとしたことに大きな特徴がある。
話題のゾクチェンはニンマ派とボン教の瞑想法で、
日本の禅宗で「無」に瞑想して心を無の境地に開いていくのに似ている。
ゾクチェンの場合は「無」の体験で終わりにしないでここから成就への道程がはじまる
(ここでの「無」は空白でも虚無でもない)。
チベットは1948−51年にかけて中国軍によって侵略され、その後、
紅衛兵による悪鬼のような蹂躙という過酷な時期を迎えた
(中国軍による征服と抑圧はいまもつづいている)。
これが契機となってインドに亡命したチベット人僧侶がさかんに欧米に招聘されるようになり、
チベット仏教が世界に知られていくようになった。11-23-2 065
(真摯な気持ちで「性」に向かうならセックスが神秘であることがわかる)
★ 3/10<ゾクチェン>
カレンダーに眼をやるときょうはもう3月がはじまって10日経っている。
2月の終盤からずーっとチベットのボン教のゾクチェン関連の本を読みふけってきた。
関連する書籍を次々に読んでいくと概略の理解に役立つだけではなく、
関連する分野のどこにおさまるかが見えてくる。
ここではチベット密教とか、インドを含めてタントリズムの、ということだが。
ひとつの対象を撮影するのに望遠レンズから広角レンズにきりかえ、
さらにマクロレンズでとらえるようなもので、頭の中で対象が輪郭をととのえ立体感をましていく。
原稿を書けるほど詳しく知っているわけではないが、
タントリズムはゾクチェンがチベットに伝わったのとほぼ同じ時期に、
北インドのカシミールあたりで仏教とヒンドウが混交して醸造されたらしい。
だから観音菩薩は女性化したし、チベット密教の菩薩たちのなかには女神のごとく胸がふくらんだ
彫像がある。世間では性的差別の撤廃、男女同権ということがいわれているが、
それは女たちを男と同じように扱うということで、
女神信仰の底流にある大地の女性性をみんなで生きるというのとは違う。
難しい問題だし、熱意を込めて書いても世俗の人たち、
とくに政治意識の高い人たちには理解できないテーマと思う。
(2-24-2 414クリスタルブッダは虹の身体を実現したゾクチェンのブッダでもある)
★3/11<ゾクチェン>
『光の少年、チベット・ボン教の二つの図象から読み解く秘密の口承伝統』
(サムテン・ギェンツェン・カルメイ、津曲真一訳、ナチュラルスピリット、2023)を読了。
一回読んで終わりにしないで、同好の志が集って、数ページづつ内容を話し合うなら、
思考を深めていけるだろうと思った。
寂しいことにそういう知り合いはいない。「光の少年」はボン教の瞑想&思想体系であるゾクチェンの
聖者タピリツァの別名で、真理の象徴という。
本書は2枚のタンカの解説書となっていて、
3分の2ほどはゾクチェンの「師資相承伝」が展開されている。
残り3分の1がボン教の聖典「シャンシュン・ニェンギ」のうちの「四輪結合」の解説となっている。
後者を読むとボン教やチベット密教の奥深さに目まいがする。
現象世界を人間の意識はどうやって認識していくのか、それと涅槃(解脱)との関係や、
死後のバルド(中有)の旅とのつながりなどが説かれている。
自分にとって本拠地は『ヨーガスートラ』にあって、後期密教以外の仏教にはさほど関心はない。
その経緯の上で、チベット密教やボン教への興味が深まっている。 2-24-1 261