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<過ぎてゆく日々のこと> 全品2割引の冬のセールを開催中!  10:25
水晶ペンダント
★12/11<過ぎてゆく日々のこと>
全品2割引の冬のセールを開催中! 
ネットでは年中セールで2割引は珍しくないけれど、
うちではアウトレットの7割引製品も表示価格からさらに2割引します。
昨日はストックを再確認しようと、一日がかりでホームページの「水晶原石」掲載品を整理しました。
在庫管理が苦手で、どこに何があるのかわからなくなってしまう。
こんなふうでは、月の宝物庫の管理人ガマ財神(3本足のガマ)に管理ノウハウをま学ばねば
と思いながら、立ったり腰をかがめたりのスクワットつづきでした。 
ご注文品の発送について。安全に製品をお届けできる範囲内で簡易包装をこころがけています。
エアキャップやルースケースなどユーズドであっても、十分にきれいで、
捨てるに忍びないものは再利用しています。
なるべく簡素に暮らして無駄をはぶけるよう心掛けています。ご理解をお願いします。


★12/09<死後の世界観のつづき> 
死への旅立ちは飛行機に乗っての海外旅行に似ていると思うよ、とぼくはアイスに言う。
このぼくは物語の語り手のぼくであって、今、このとき、原稿を書いているぼくではない。
飛行機に乗ったらもうじたばたできない。黙って運ばれていくしかない。
そうして常世(とこよ)に着いて通関すると、そこにはそれまで全然知らなかった世界がある。
旅人であるぼくらは、すっかりと目新しい世界に心を奪われて、
それまで自分がいたもとの世界のことを忘れていく。
「行くのは天国じゃなくて? 高天が原とか?」彼女は言う。
「死後への旅は心の根っ子のほうに帰っていくことなんだ。古代の神道には天国はなかった。
高天が原は天国ではない。初期ヤマト王朝を建てた征服民が自分たちを偉くみせるために、
天から来たと名乗っただけで、高天が原が死者の魂を引き受けてくれるわけではなかった」
「たしかにそうね」
「死者は生者にはわからないような遠くへ行ってしまうというふうだった。
自分気分ではバリ島みたいなところがいいと思っている。
ああいう土地でお祭りにあけくれているうちに年月が経っていくなら、
死ぬことはそんなに怖いことでなくなる」
「そうね、飛行機に乗って旅立つのか」と彼女。
臨死体験というのもそれに近かった。今度はその話をしよう、ぼくは言った。
死を予行演習することで死に保証されるんだ。


★12/10<読書記録>
『日本人の魂の原郷・沖縄久高島』(比嘉康雄、集英社新書、2000)興味深く拝読した。
著者比嘉康雄(ひがやすお、1938-2000)は、沖縄や奄美諸島など南の島々の祭祀・信仰を
およそ30年間に渡って写真と文章で記録してきた人で、代表作に 
『神々の古層(全12巻)』という写真集のシリーズがある。
あるとき古書店で1冊を入手したのをきっかけに全巻を愛蔵している。
彼は本書の刊行直前に61歳で死去したという。
本書では沖縄に隣接した久高島(くだかじま)に暮らす人たちの宇宙観や信仰内容が丹念に書かれている。
これらの記事とバリ島訪問時の記憶などを重ね合わせると、
弥生・古墳時代に神とともにあった人々の暮らしぶりが見えてくる気持ちになる。
彼らは原初的な水田稲作に従事していただけではない。
神を祭ることに日々の重点があって、向こう側のみえない世界、常世(とこよ)とともに毎日があった。
その心根が自分のなかで投網のように広がっていく。


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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 12/06-08 2019 11:56
バリ島
★12/06<アイス・美人生霊> 
子天狗玄太の前日譚で、物語の語り部、ぼくは美人生霊(いきりょう)と親しくなる。
彼女は難病を患って入院している。彼女にとって死は目前の問題だ。
だから死んだらどうなるのか訊きたがる。それで死んだ人たちのことを考える。
山の家へいくバスは途中霊園団地みたいなところを通る。左右に墓地が広がり、墓石屋が軒を並べている。
年中墓参りする人が絶えない。彼らは死者に対してどのように祈るのだろう。
「安らかに眠ってください」との祈りでは、死者はどこに眠っているのだろう。
遺族を見守ってくれるよう願う人もいる。
死者がいるであろう天界・天国は道教やキリスト教の概念で、仏教・神道にはない。
道教では天帝のもとに官僚主義的な霊界がある。遺骨は天の魂と共振するが、
墓石に納骨された燃え滓では地の魂である魄(はく)は居着けそうにない。
墓参りして、仏教が説くように、死者が転生した先で幸せに暮らすよう祈る人は滅多にいない。
日本では僧侶だってそういうことを信じていない。
何をいいたいかというと、死者に対する日本人の感性は仏教よりも古く、
道教の影響をうけた神道の概念がベースになっているようで、
それがどういうものであったかを探ることで、死んだらどうなるかの答えにしたいと考えている。
(日本人にとっては心の源泉は勾玉時代にある)


★12/07<死後の世界観のつづき> 
仏教伝来以前の日本人、弥生時代後期から古墳時代のご先祖にとって
死後の世界はどんなふうだったかを想像している。たいがいの宗教は、
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」(ゴーギャン)という、
人類にとって根源的な問いの回答を用意してきた。
良い子にしていれば良い目がみられるが、悪い子には死後の世界はひどいよ、というのが基本姿勢で、
良い子は政治体制に従順な人を意味した。ところが神道では死後の世界について明確な描写がない。
現代においても神道の神さまは死後安楽のクニに導いてくれるわけではない。
記紀神話やアジアの少数民族の神話・伝承などから想像すると、
先祖のおおもとには氏神(うじがみ)がいて、われわれは氏神の子孫ということになっている。
死後には霊魂は氏神のもとに回帰したようだ。
神々は幽玄な存在だから暮らしぶりや領土は見定めがたい。
神々は当然異界の存在で、彼らの土地は常世(とこよ)といって、海辺の民には海の彼方、
山村の民には深山幽谷の彼方にあった。死者は常世(とこよ)に召されて、
薄暗く湿った土地でゾンビのように静かに暮らした。やがて生者だった頃の記憶を失い、
魂が浄化されると再度この世に赤子となって戻ってきた。
古い時代の神道には天を崇拝する気持ちが希薄で天国も存在していなかった。
アマテラスを太陽神に同定したのは、
大日如来とアマテラスが習合して以来のことではないかと疑っている。
軍国主義のもとでの国家神道がアマテラスをゆるぎないものにした。


★12/08<死後の世界観のつづき> 
神道の地味な死生観に対して、仏教の伝来は無声映画が突然に総天然色三次元立体映画になったような、
驚天動地の出来事となった。外来の神である仏は金ぴかの身体に宿っていた。
岩や木の依代(よりしろ)に降りて、巫女に憑依して託宣をのべて帰っていく、
とりつくしまもない従前の神々と違って、お館に常駐して慈母にも似た慈しみのまなざしで見守ってくれた。
神道にはない浄土(天国)の概念もまばゆかった。
阿弥陀の極楽浄土や観音の補陀落浄土は、仏にすがれば死後そこに往生できた。
浄土では人は病まず、老いず、働かず、食い気も色気も欲望のことごとくを甘受できた。
このアイデアは輪廻のオプションのひとつだった。
その反面仏教は、因果応報の厳罰主義で、儒教風に彩色された道徳に背くと、
地獄におちて、語るもおぞましい久遠の苦しみに耐えなくてはならなかった。
飴と鞭の大盤振る舞いによって仏教は日本人の間に浸透していった。
現代の日本では、仏教式の葬式や墓への納骨を死後の供儀として望んでいる人でも、
常日頃は神も仏もいないかのように暮らしている。
けれど葬式に参列したり、墓参りしたりなど、死と向き合うと、古代の感性が心の内によみがえる。
その姿は仏教ではなく、古い時代の神道の世界観であるところがとても日本的だ。
死への旅立ちは飛行機に乗っての海外旅行みたいなものだと
アイス(美人生霊)に話すことにしたらどうだろう。
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 12/02-07 2019 18:02
重ね勾玉
★12/02<過ぎてゆく日々のこと> 
1週間ほど前のこと、池袋の古代オリエント博物館へ二つ重ねの翡翠勾玉を見に行った。
「しきしまの大和へ・アジア文華往来」という展覧会で、
奈良の橿原考古学研究所付属博物館の所蔵品のひとつとして展示されていた。
奈良県宇陀市榛原(はいばら)区笠間という所にある澤の坊2号墳からの出土というが、
ネットを見ても規模やいわれがわからない。
くだんの勾玉は目視で40mmほど。みかけることが難しいほど透明度が高く若やいだ翡翠で作られている。
出雲大社の所蔵品や唐古鍵遺跡(奈良県)の出土品など、
古代の翡翠勾玉の石の質の高さは驚くばかりだ。
そしてこの二つ重ねの丁字頭勾玉ときたら、だれが何を思って作ったのか、
職人の創意なのか、注文主に特殊な思い入れがあったのか、
とにかく不可解で1600年ほどの昔に旅をして、作者を探して訊いてみるより他ない。


唐古鍵
唐古鍵
★12/03<過ぎてゆく日々のこと> 
奈良県は初期ヤマト王朝の中心地、いたるところに古墳があって、森を見たら古墳と思え、
といわれているとか。三輪神社(大神、おおみわ)や箸墓古墳の比較的近くに、
唐古鍵遺跡という弥生時代の環濠集落遺跡があって、
ここからも透明度が高く緑色が鮮やかな翡翠製勾玉が出土している。
こちらの勾玉も形状が個性的で釣針型をしていて腰の曲がりが力強い。
しかもこの勾玉は、おそらく日本中で1件のみ、天然褐鉄鉱の容器に入っていた。
褐鉄鉱は鉄バクテリアが作るバイオミネラルの一種で、泥土のなかで発達しやすく
、内部に泥を封じた石ころ状になる場合がある。
石ごと振ると乾いた泥がカラカラと音をたてるので鈴石とか鳴る石という。
唐古鍵遺跡は鳥に扮した巫女のイラストや巨木遺構でも有名で、時代背景を考えると、
現在の纏向遺跡あたりに建国しただろう初期ヤマト王朝に滅ぼされた可能性がある。
写真の勾玉は上が「唐古鍵考古学ミュージアム」に展示されている出土品。高品位で鮮やか。
下は遺跡近くの道の駅に展示してあったレプリカ。


鶏血石
◆12/07<読書記録>
『折口信夫・いきどほる心』(木村純二、講談社、2008)を読了。
文学者でも考古学者でも専門家はひとつのテーマのもとに居つづける。
ルポライターみたいな仕事は、関心を抱いたテーマをそれなりに消化してひとまとめしたら
次のテーマに移っていく。ライターは旅人であり研究者・専門家は定住民のようだ。
ルポライターの目で折口信夫関連の本をつづけて読んでいる。
折口のメインテーマだった「まれびと」について、観音菩薩や釈迦如来のように
慈悲深く包容力がとりえの存在ではないことがわかってくる。
「まれびと」には死者のクニから来訪するくらさがある。異形はいきどおりを現している。
古代の神は人間の女(巫女)を一夜妻に所望した。そういう淫らさもある。
そういうことがわかってきて、どういう人が「まれびと」論を提唱したのか、
折口本人へと関心が向かう。
本書では折口が母の不義の子だったことの可能性や、
少年のころからの同性愛指向についての記述があって参考になった。
来訪神はアウトサイダーであり、常世(とこよ)のクニから来ることになっているが、
この神は日常性の重荷を解放してくれるトリックスターでもあったようだ。

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<読書記録> たまにはフェイスブックの読書記録もこちらに転載  08:28
ギョロメ
★11/24<読書記録>
『折口信夫とその古代学』(西村亨、中央口論社、1999)を読了。
折口信夫がどういう人生を歩んできたかがよくわかった。
「まれびと」について、およびそこからの文学・芸能の発生についても、
折口の全集を読むよりもわかりやすく、アウトラインをつかむのに便利だった。
著者が編集した『折口信夫事典』(西村亨編、大修館書店、1988)を適宜開いて、いっしょに読んでいる。
後者はA5版で厚さが48mmある。眠る前に壁に両肩をあずけて読むには重すぎる。
ともかくもこうやって毎日を折口漬でいると、ほんとうは野次馬にすぎないのだけれど、
折口信夫の研究家になったような気分でいる。


★11/29<読書記録> 
「現代オカルトの根源・霊性進化論の光と闇」(大田俊寛、ちくま新書、2013)を読了。
「精神の進化」というのは神智学(これは新興宗教のひとつで学問ではない)の隆盛以来
魅惑的な言葉になっている。しかし、進化は突然変異で獲得されたものが
遺伝していくことをいうのであって、少数の人類が神秘主義に目覚めたからといって、
遺伝して拡散していくわけではない。「意識の進化」はアナロジーとして有意義と思っている。
それはさておき、本書は、ここ100年あまりの、ニューエイジ風精神世界の流れや、
日本に伝来した神智学のその後を概観するのにとても有用で、
「ああ、そうなのか」ということがいっぱいでていた、教室を開くつもりははなからないが、
「精神世界の考え方」みたいな教室を開くなら教科書にしたい本だった。


★11/30<読書記録>
『面白いほどよくわかる神道のすべて』(菅田正昭、日本文芸社、2004)を拾い読み。
副題に「日常の暮らしに生きる神道の教えと行事」とある。
国家神道の事始めについて手際よく解説してあって助かった。
明治になって神仏分離ということをやって、天皇を中心に国家を精神的に統治する体制を整えていった。
なんでそういう詭弁まがいのことが通用したのかよくわからないのだが、
天皇や神々を礼拝するのは国民の道徳、倫理で、神道は宗教ではないということになったという。
それが戦前の全体主義国家に持ちこまれ、国家神道になっていった。
戦後はその反動で愛国心が恥ずかしいことのように喧伝された。西欧文明を闇雲に尊敬し
、戦前の近隣諸国への侵略をひたすらに恥じることが進歩的な日本人の姿となった。
それでは神仏混淆する以前の神道とは、どういうふうであったかに興味を抱いている。
仏教の他界観に神道の世界観は放逐されたようだし、仏教伝来時点での神道は相当に道教化していた。
初期ヤマト王朝の時代、勾玉や管玉ネックレスをしていたご先祖たちは
死後の世界をどのように想像していたのだろう。

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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 11/21-23 2019   08:48
日本翡翠
★11/21<過ぎてゆく日々のこと> 
山の家へ行くバスは区間運休したままで、中断している部分は12人乗りのバンが一日5便代行している。
バンに乗り換えると相乗りタクシーで国境を越える気分になった。
先日の大雨で川は気配がかわったまま戻らない。見知らぬ土地を歩くようだった。
空き家の前をとおると、イノシシが庭を荒らし、平らだったはずの地面がでこぼこになっていた。
自宅に着くと、うちの外壁に接した花壇もまたイノシシに荒らされていた。
鉄砲百合の球根をねこそぎ食っていったんだろう。耕されたばかりの畑のようでもあった。
奇怪な声に道路の反対側の斜面をみると、空き地を7、8頭のサルが走り回っていた。
家はしんしんと冷えて他人行儀にみえた。廊下に置いてある翡翠原石や
、ひとまとめに積んである民俗学関連の図書や、居間のテーブルの上にだしたままのメモなど、
みんな自分のものなのに、地方の町の弥生時代の遺跡に付属する資料館の展示品のようだった。
しばらくの間は、旅人の自分と通常の自分とが混在しているようで落ち着かなかった。


★11/23<過ぎてゆく日々のこと> 
山の家は上高地への入り口、木曾福島から車で2時間というような山奥にあるわけではない。
二十数年前にここに家を買ったときにはイノシシやサルの話を聞かなかった。
それからしばらくして、山の中にはイノシシが地面を掘った跡がいっぱいあるという話を
聞くようになった。山の中腹を梢(こずえ)を揺らして渡っていくニホンザルをみるようになった。
イノシシが道路脇の土手や人家の庭を荒らすようになったのは、この3、4年のことで、
それまで彼らは人間を恐れていた。イノシシやサルたちに何が起きているのだろう。
山と里の中間には里山という住民が薪(たきぎ)を集めたり、山菜をとる境界領域があって、
獣たちはそこから里に降りることがなかった。生活様式の変化や過疎化によって里山が放棄されて、
獣たちは山と里の境界を見失った。そのことがイノシシやサルが村に出没する原因のひとつという。
山に獣たちの食料がなくなっているとか、過剰の繁殖という意見もある。
けれど、この短い期間に獣たちはどうやって、人間は恐れるに足らずと学んだのか、それが不思議だ。
どこかの土地でイノシシは里のほうが豊かであることを学んだ。
「場」が形成されると情報が飛んだ。各地のイノシシは一斉に里の豊かさに目覚めた。
千頭のイノシシが徒党を組んで陣馬街道を市街へと驀進する日がくるかもしれない。11-19-2


★11/22<過ぎてゆく日々のこと> 
雨が降っている。部屋の暖気に曇ったガラス窓の向こうを、
黒いマーカーで線引きするようにカラスがよぎっていく。
あいつらは完全防水だから天気を気にしなくて済んでいる。
窓を眺め、雨の音に耳を傾けていると気持ちが沈んでいく。寂寞とした思いが霧となって広がる。
気付くと胸の奥の方にさほど大きくない湖があって、周囲が山に囲まれている。
水面(みなも)は鏡面のごとく鎮まっている。なにかをしなくてはという熱意もわかず、湖を見る。
ぼーっとしたまま時間を捨てる。そういうことを許さないワーカーホリック的な傾向があった。
旅行にでかけると、あちらこちらにたむろして時が過ぎてゆくのを楽しむことができる。
それが自分の解放につながった。けれどトーキョーでは本を読んだり、DVDを見たり、
散歩したりは許せても、1時間2時間を無為に過ごせない。
もう、そんなふうに生産性を追及しなくてもいい、
「すること」に自分を縛らなくてもいいと思いながら、なかなかそうはいかない。
「しないこと」を学ぶ、しないまま満ちていられるというのは難しい。
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心の御柱から自分を好きになる、そして自己の統合へ 10:20
レーザークォーツ
★11/13<自分を好きになる>(心の御柱のつづき) 
雨が降って堰を越えた水が砂地を這っていくように、思考は低きへと向かってとめどなく流れていく。
「心のうちでの天地の統合は自分と仲良くする秘訣」ということから出発して、
自分を許せない人たちがいることに気付く。
なにかにつまづいて人生をふいにしたと信じている人や、能力が及ばず、または会社が認めてくれず、
左遷されたり解雇された人もいるだろう。受験の失敗が挫折の始まりという人もいる。
そういう人にとって世の中は好意的ではない。たえず自分を打ち負かそうとのしかかってくるばかりで、
戦いに破れると、残りの人生を薄闇にもがいて暮らすことになる。
みかけは社会的な勝ち組にみえても負け犬の日々をおくる人もいるんだろう。
だからといって、ぼく自身はカウンセラーじゃないし、他人の悩みを聞きたいとも思わない。
うちのお客さんにそういう人がいるのなら、石たちに触れることで、
心の奥のほうからの声に気付けるようになればいいと願う。11-19-2


★11/14<自分を好きになる> 
「自分で自分を好きになる」というのはヒーリングにおいて重要なテーマで、
とくにパワーストーンを販売したり、占いに従事する人にとっては見過ごせないことがらと思ってきた。
そういうことを遠い昔に幾度か書いた。そのときここには大きな問題があると思ったことを覚えている。
自分のことを嫌っている人は心静かな時間を持って内省したくない。
彼らが反省するのは自分の落ち度や怠惰さだけだ。
内省すれば自分のことが嫌いな自分と向き合うことになる、だから心静かな時間を浪費と退ける。
そういう人たちに立ち止まることを勧めても無駄だ。
父系社会の儒教的構造として、男も女も「自分を好きにならない=自分に満足しない」
ことをよしとしてきた。男たちは艱難辛苦・叱咤激励・切磋琢磨して自分を鍛えてきた。
彼らの目標は未来にあって、「今」という時間は未来への投資ないし犠牲だった。
女は捨て身の覚悟で良妻賢母たらんとしなくてはならなかった。
いまの自分は本当の自分ではないとか、どこか嘘っぽいと思うのであれば、
これも修行のうちと思って、石を見て良い気持ちに憩う、景色の静けさに浸る、など、
そういうところへ自分を解くよう努めればと思う。
自分を好きなるというのは、これからのライフスタイルのかなめなんだから、
天然石のお守りをひとつポケットに入れて「気付き」を発酵させるのもいいだろう。


★11/15<自己実現への道> (自分を好きになるから自己の統合へ) 
表側の自分と内側の自分、社会的な自分と個人的な自分。
心理学好きな人はペルソナとシャドーとよんだりする。
全部がネガティブというわけではないけれど、社会的な自分を装うのに都合がわるかったり、
自分で認めたくない自分が識域下に埋められていく。
かくして自分が良い子であるために悪い子部分はかえりみられなくなる。
けれど心は全部の自分を認めてほしい。潜在意識はあの手この手をつかって自己主張する。
自分で自分を愛せない、自分で自分を嫌うのは、
表側の自分と内側の自分との間に葛藤や軋轢があるということだ。
両者を合一して自分の全体性を回復する、こうやって自己実現はなされるのだが、
意識の深いレベルを考慮するなら、自己実現というのは、内側の自分を私として認めればいい、
というほどたやすいものではない。
それに全体は個々の総和より大きくて、自己実現は生涯つづく自己の成長の物語であり、
仏教の悟りと同じような匂いがある。
このモデルとしてぼくは江戸時代末期の禅僧、良寛を思い浮かべる。
猫を紙袋に押し込んで蹴毬(ケマリ)の代わりにしたあの山寺の和尚さんのことだ。
(自分を好きになるは世俗の道で自己実現は呪術師や求道者の道)
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<過ぎてゆく日々のこと> 心に御柱を建てて天地をひとつに結ぶ 22:39
レーザークォーツ
★11/11<心の御柱・1> 
知り合いの宮司が、祈祷を依頼された参拝者にお守りとして水晶ポイントを渡したいがどうだろう、
といってきた。つまりは彼のなかで水晶が発酵したということだ。
彼は心霊業界(いろいろな業界がある)では名が知られた霊能力者だと聞いたことがある。
宮司のくせに相談を受けることが苦手という複雑な性格なので具体的な紹介をひかえる。
彼がいうには、これなら心の御柱(しんのみはしら)になる。
うろおぼえをもとに言うなら、伊勢神宮の本殿の床下、芯となる位置にさほど長くない柱が一本あって、
心の御柱(みはしら)という。神宮のかなめだ。
出雲大社にも超高床式の柱の中央に心の御柱(みはしら)がある。
諏訪大社の御柱(おんばしら)はあまりに有名で、もとをたどれば縄文時代の巨木信仰がある。
日本翡翠の大珠発祥の地、糸魚川市の寺地遺跡には4本の巨木の柱跡があった。
柱は天地を結ぶ宇宙樹の代用であり、五輪塔や仏塔(ストウーパ、パゴダ)、
リンガヨニ(シヴァリンガ)と同じことを意味する。
大珠もまたそのように見るなら心の御柱(みはしら)だ。


レーザークォーツ
★11/12<心の御柱・2>
世界中の神話に共通する原形的な象徴のひとつに宇宙樹がある。
天地を結ぶ梯子で、男神と女神の交合、宇宙的な男性性と女性性、精神性と物質性の合一を意味する。
精神宇宙的には心の統合のシンボルとなってきた。
表層的な意識と潜在意識を統合することで、まるごとの自分を受容できる。
自分のことが好きになれる次第だ。
あれが正しいこれは正しくない、こういう考えはいい考え、これは悪い考え、
ということを教育されて人は育つ。いい子になるのが大切で悪い子になってはいけない。
結果として、ああしなければいなけい、こうでなくてはいけない、という思いに縛られて、
都合の悪い思いは識域下に追いやられて、かえりみられなくなる。
そうやって表の意識と裏の意識が対立する。良い子の自分と悪い子の自分ができて、
悪い自分はなるべく見ないようにする。80歳を過ぎても悪い子は内側で元気なままだ。11-19-2



レーザークォーツ★11/12<心の御柱・3>
この傾向が強いと内側に追いやられた悪い子的な自分は身体を使って自己表現しようとする。
葛藤は思春期の過食拒食など身体の不具合や不定愁訴になってあらわれる場合がある。
すべてが心のせいではないし、50歳を過ぎれば身体は耐用年数を過ぎるということもある。
内側の自分と仲良くするには、悪い子も自分なのだと認めるだけでよくて
、悪い子の願望を実現する必要はない。まるごとの自分の受容によって自分を好きになれる。
幼稚なナルシズムと健康な心根で自分を好きになることは同じではないし、
自分に好意を抱くことが精神の健全な発達をうながす。
表と内側、表層意識と潜在意識が統合されたシンボルが宇宙樹で、
形にすれば心の御柱(みはしら)であり、リンガヨニ(シヴァリンガ)であり、
天然石の大珠であり、カバラのセフィロト(生命の樹)である、ということになる。
錬金術的には男と女の統合、王と王妃(水銀と辰砂)の聖婚に示されている。
ユングはこのことをもって「自己実現」と言った。
社長になるなど、願望を達成するのが自己実現ではない。
小さな水晶ポイントから大きくて広い世界が展開されていく。
(自分を好きになるというのはヒーリングでは重要なテーマだ)
(ひとりにひとつ水晶が必要)。11-19-2


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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 10/23-11/10 2019   10:39
ローズクォーツ
★10/23<過ぎてゆく日々のこと> 
天然石関連の書籍に書いてあるほど石は分類が厳密ではない。
教科書を覚えるようにくっきりはっきり名前をつけようとしてもうまくいかないことが往々にしてある。
たとえばミルキークォーツとローズクォーツの境界はどう定めるのか、
透明に近いクンツアイトは鉱物名のスポジュメンというべきか、ホワイト・クンツアイトまたは
カラーレス・クンツアイトというべきか(宝石屋は迷うことなくクンツアイトとよぶ)。
1個の原石で焦茶色と黒が混在している水晶はモリオンなのかスモーキークォーツなのか、
小粒の水晶クラスターと色抜けしたアメシストはどう区分けするのか、
ルビーとコランダムの境界はどのあたりにあるのか、などなど。
なんでもかんでも分類して等級分けしなくてはならないという博物学志向が強すぎると、
ものすごく美しいものが目の前にあるのに、美しさを知らないまま人生をおえてしまうことになる。
リンゴの研究に熱心ではあってもリンゴを食べたことのない学者に似ている。
天然石の名前も産地も価格もみんな忘れて石たちの美しさに見入る。
さらには魅入ることができるといいんだけれど、できる人とできない人がいるみたいだ。


ビルマヒスイ
★11/08<妻木晩田遺跡> 
知人のフェイスブックをみていたら、なんでむきばんだに 「世界不思議発見!」の取材がこないんだ、
というようなことが書いてあった。むきばんだってひょっとしてあの字、妻木晩田遺跡のことかと気付く。
いそいで検索すると鳥取県西伯郡大山町にあるとあった。国内最大級の弥生時代の遺跡という。
島根・鳥取のあたりは弥生時代の一大文化圏でそれがそのまま古墳時代につながっている。
後の百済の衆のように対馬−瀬戸内海の航路をとらずとも、朝鮮半島の東側の衆は南下するだけ、
山東半島の衆であれば南下して黒潮に乗れば、列島の日本海側に渡来できた。
結論だけいうと、ちょっとした縁があって、そこの史跡公園には、
ミャンマー翡翠でつくったうちの本勾玉が展示されているはず。
「むきぱんだオフィシャルホームページ」には「むきぱんだ」なるゆるキャラがいて、
皮を剥いても剥いてもパンダがでてくるなんてイラストがあった。
ローズクォーツの管玉ネックレスや極細タイプの管玉でよければ寄付するのだが、どんなものだろう。


トルマリン
★11/10<過ぎてゆく日々のこと> 
このところ鉱物のグループ名が気になる。
鉱物辞典などを開いても「これはグループ名」という記載についひっかかってしまう。
たとえばトルマリン、ガーネット、エピドート、クローライトなどは単一の鉱物を指すわけではなく、
組成がよく似た鉱物を集めたグループ名で、ちょっと検索するとエピドートには28種類、
角閃石には187種類、沸石には245種類ある、などと出ている。
分析技術がすすんで鉱物の組成の研究がすすんだせいだし、
動物・植物・菌類など博物学関連の研究者は分類するのが第一の仕事で、
新種の発見を栄誉とするようなところがあるせいも大きい。
ぼくのように人類の精神史とかシャーマニズムと鉱物の関係を関心の第一とするものには、
鉱物の組成や属性はさほど重要ではないのだが、日々刻々、鉱物の新種が発見されて、
研究者の名前や採掘地の地名を冠した鉱物名がつけられていくのをおもしろく思っている
(おもしろい=おもむきがあって感慨深い)
写真のような柱状のトルマリンはリチウムを含むトルマリンに分類され、
イタリアのエルバ島にちなんでエルバイトとよぶ傾向にある。  017-3 4-19-2
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ、幸せへの道1〜3 11/05-07 19:38
日本翡翠
★11/05<幸せへの道・1> 
パワーストーンのパワー効果は強いてまとめるなら1に願望実現、2は幸運獲得、3は心の癒し、
といったあたり。根っこには不幸を避けて幸福に暮らしたい思いがある。
そこで、いまさらながら幸・不幸とはどういうことかを考える。
ここでは世俗の道、つまり一般的な人々の生き方と、
精神世界風な考え方とで内容はがらりと変わってしまう。
世俗の道は自分の目標を実現できるよう歩んでいく道で、夫婦円満な家庭を持ちたい、
立派な家に住みたい、仕事で成功したい、平穏な日々を送りたい、
などという過程の出来事のひとつひとつが幸・不幸を評価する対象になる。
災害や事故にあう、病気を患う、職を失う、などすれば大きな不幸が始まる。
それに対して精神世界風な生き方では、日々の暮らしのうえでの幸・不幸を問題にしない。
真理との遭遇・完璧な精神の自由・大いなるものへの融合、そういうものを目指して、
日本でいえば空海や道元や白隠などの先達が歩んできたのと同じ道を歩んでいく。
求道者的観点から世俗の生き方を眺めやると、
こちら側のみに固執していては知りようがない視座を学ぶことができる。
そこでは幸・不幸に惑わされない道が開示される。ヒーリング関連の仕事をしていたり、
これからかかわっていこうとする人には必要な知識と思っている。016-2


★11/05<幸せへの道・2> 
他人からみれば苦労の連続のような人生を歩んできた人がいる、でも彼女にとって
人生は生きがいがあり苦労のしがいもあって楽しいものだった、と彼女は思っている。
別の人ははたから見ればなにひとつ不自由のない暮らし。けれど本人には窮屈で空しく、
喜びなどなにひとつなく、堪え難いまでに不幸だったと、彼女は思っている。
なにが幸福でなにが不幸かは本人の評価しだいということであり、
それが自分の思いへのしがみつきを強めていく。
事故や病気や災害でそれまでの幸福が一挙に暗転するように、幸福の追及には確実なものがない。
不確実な思い込みに支えられた「現実」は幻想でしかないようなところがある。 
そんなふうに古代の賢者たちは考えてきて、幸・不幸の概念に惑わされない生き方、
日々の出来事に翻弄されない生き方を探ってきた。それが精神世界についての知識であり、
こちら側の価値観を順次しりぞけていく道だ。
精神世界的生き方はほとんどの人にとって必要ではないが、
スピリチュアルな領域からこちら側を見る視点は、
自分の思いで自分を縛っている姿を認知するのに役立つ。
自己を解放する地点において癒しが起きる。
ヒーラーとして他者に接する立場では、依頼人が自発的にこうした気付きを得る「場」を
提供することが重要なんではなかろうか。
ここではパワーへの理解が欠かせない。


★11/07<幸せへの道・3> 
幸せになりたい思いに固執し過ぎたり、それに呑まれてしまうと亡者になる。
子供を有名学校にいれたがる親、婚活に熱意を燃やす人たちを数えられる。
背伸びして有名大学に入学できた子供が落ちこぼれる、
婚活に成功したと思いきや相手はギャンブル依存症だったりすると未来は暗転する。
幸福と似ていて混同しやすい概念に幸運がある。幸運は日常性がマンネリ化していくのを防ぐ。
天然石のパワー効果のひとつに幸運を引き寄せる力というものがある。
幸運は向こう側から漏れ出てくる神秘的パワーの恵みで、
呪術は幸運獲得のパワーを増加させる術として発達してきた。
瞑想などによって意識が日常的レベルからもう少しデリケートな状態へ移行すると(変性意識という)、
想像したことがらが実現していくと感じられる領域に出会える。
幸運はここで念じることで引き寄せやすくなる。心の浄化が大切で、
石たちに魅入る練習を重ねると、気持ちはきれいになって、マインドパワーが強化される。
つまり石たちに見入ると心が育つ。育った心が幸運を招く。おまけがあって心が強くなりもする。
ヒントは変性意識にある。(『宮沢賢治と天然石』北出幸男、青弓社、参照)

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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 10/23-11/01 2019  10:01
モスアゲート
★10/23<過ぎてゆく日々のこと> 
うちのは小さなホームページだから商品管理など簡単にできそうなものだけれど、
気付くと在庫数が減っていたり、品切れ表示のままになっているものがあちこちにある。
更新しなくては思っても、慌ただしさにかまけているうちに日が経っていく。
昨日はそういった反省のもとに、「天然石勾玉/勾玉38mm」のモスアゲート本勾玉と
レッドアゲート本勾玉の追加分の撮影をした。
先の新天皇の即位式では、三種神器の八尺瓊勾玉が箱に入れられて天皇とともにあった。
勾玉は祖霊の宿り、天皇の玉体を護るに欠かせない。
念のためにここでの八尺は大きいという意味、「瓊(に)」は宝石などが麗々しく輝くさまをいう。
文献からだどれるかぎり、八尺瓊勾玉は誰も実物に触れたことがなく、
これからも触れられることはない。
おおかたの想像では出雲大社の宝物のような長さ4−5cmの立派な日本翡翠製品ということになっている。
当社製モスアゲート本勾玉は背後からペンライトで照らすと模様が透けてみえて。
おぅ、おぅっ、と息を呑んだ。10-19-4


オパーライト
★11/01<過ぎてゆく日々のこと> 
店があったころ、店頭の製品を手に、これは染色していないか、処理していないかと、
訊いてくる人たちがいた。それくらい自分で学んだらどうだと思っていた。
けれど考えてみたら、宝飾品の関係者でもないかぎり、石たちの処理について知る機会はほとんどない。
一応はそういうことも知らせておかなくてはと思っている。
宝石業界ではトパーズの放射線発色や、ルビー・サファイア・タンザナイトなどの加熱処理が話題になり、
安価なルビーではガラス浸透が行われていたり、
後述するようにミャンマー翡翠の含浸処理の問題もある。
しかしこのことばかりに固執して、損をしたくない、騙されたくない気持ちで
頭をいっぱいにしてしまうと、石を楽しめなくなってしまう。
パワーオタクな人たちのなかには天然石のパワー効果を暗記するに忙しくて「石を見ない」人が
いるのと同じだ。「見る」ことを学んでいただけたらと思う。
天然石の処理は質を高めた宝石を安価に流通させていく技術であり、顧客を騙す企ててではない。
(写真:オパーライト本勾玉、夢見る宝石)


ヒスイ
★11/01<過ぎてゆく日々のこと> 
翡翠原石の樹脂浸透の話のつづき。樹脂浸透した原石サンプルの写真。
中央はそこからカットされた璧(ピーディスク)。
わかりにくいかもしれないが、スライスした原石の表面をプラスチック樹脂が覆っている。
聞いた話では樹脂を乗せた原石を電子レンジで加熱するという。
すると高野豆腐にしみ込むだし汁のように溶けた樹脂が原石のなかへしみ込んでいく。
結晶粒子の間隙が樹脂で充填されることで乱反射がなくなり透明度が増すどおりだ。
友人に連れられて見学に行った広州の工場には、こういうのが麻袋に詰めて3つ4つと並べてあった。
中国、香港、台湾では端材を利用した処理済みの翡翠が大量に作られている。
念のために、当社の日本翡翠製品ではこういうことを一切していない。10-19-2

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