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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 8/13−8/16 2018  08:11
アサガオ
★8/13<過ぎてゆく日々のこと> 
例年なみの陽気に戻ったからかアサガオの花がたくさん咲いている。
7月の末の猛暑の日々には開花が止んだ。連作障害かと思っていた。
サボテンは小さな鉢のまま植え替えないでいると、自家中毒して枯れてしまうという記事を読んだことがある。
草たちもそれなりの生存競争のうちにあって、幾つかの植物は根から毒をだして、
自分の近くで他の植物が繁殖するのを防いでいるという。
連作障害は過剰防衛した結果の自家中毒ということらしい。
生き延びるということは人間だけじゃなくてサボテンもアサガオも大変なことであるに変わりはない。
ともかくも色見本帳のように鮮やかで、薄い被膜のようにあやうい花を
ツンツンと上向きに咲かせている姿をみると、もうまるで観音菩薩が宿っているような気持ちになる。7-18-7


★8/14<過ぎてゆく日々のこと> 
空に雨雲がのしかかり、見渡す限り黒く重い灰色に染められる。
手始めにぽつぽつとした雨が来てすぐさま本降りになる。
稲妻がひらめいて落雷の音が響く。突風に雨がしぶく。雷が吠え、雷鳴が天を駆ける。
古代の中国では、雷の吠え声を天界の犬、天狗の仕業と考えていた。
原初の天狗は動物型の精霊だった。
日本にきて天狗は人型の神霊になったが、天狗は天狐でもあった。
食物神を御食津神(みけつかみ)というミケツは三狐で、
狐は食物神の眷属になり、稲荷になったなどともいう。
天狗に先導されて稲妻が地表に降りる。
稲妻は「妻」と書いても古くは天の男神を意味した。稲妻が田の女神を孕ませて稲魂が宿る。
2時間ほどで夕立は止んで、人と会う約束があったので電車に乗った。
鉄道施設のどこかに落雷があったとかで電車が遅れ、約束の時間に遅れそうで気をもんだ。


★8/16<過ぎてゆく日々のこと> 
早朝5時過ぎに目が覚めた。くだらない夢を見た。カーテンの隙間から外をのぞくと、
台風の雲に朝日が映えて空一面朝焼けしていた。
夢と決別するためにトイレにたって布団にもどってから呼吸法をやった。
はじまり数回の呼吸で、呼気といっしょに腕や腰の力を抜く。
それから「吸う、吐く」と意識してゆっくりと呼吸する。
良寛は禅寺での修行時代、念仏をとなえて座禅したと関連本に書いてあった。
当時の禅宗ではそういうのが流行したとか。
阿弥陀の浄土への転生を願うのは好みじゃない。
そんなところへ行ってもきっと凡庸な人たちばかりだろう。毎日ほうけて暮らさなきゃならない。
けれど阿弥陀如来を悟りの体現者とみなすなら、そういうのもありなんだろう。
「吸って吐く」をつづけると、無念無想には遠くても、
頭のなかがまっさらな茶封筒のようになって、意識の豊穣さに味付けされることがある。

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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 8/10 2018 11:26
賢治
★8/10<過ぎてゆく日々のこと> 
目下のところ、午前中はフェイスブックを使っての原稿書きの練習、
夕食後は仕事をしないよう心掛けている。
フリーランスのライススタイルは昔のお百姓と同じで起きてから寝るまで仕事している。
たまに2週間とか3週間の海外旅行が、たとえ仕事を兼ねていても、
まるで熊野詣でのような、あるいはお伊勢参りのようなお祭り騒ぎだった。
店に通わなくなっても、長い間の習い性でつい仕事を見つけたり作ったりしては、忙しさにかまけている。
原稿を書くということでギャラをもらった最初の仕事は雑誌の新刊案内で、
つぎにけっこう長く漫画雑誌に映画レビューを書いた。
以来ずーっとなにがしかを書きつづけている。
フェイスブックではいくらたくさん書いても原稿料をもらえない。
自社宣伝だと思えばギャラは支払われているわけだし、
ここから次の本が育つのであれば下書き帳になるということなんだろう。
写真は『宮沢賢治と天然石』(北出幸男、青弓社、2010)から。
自分には大事な本で、新しい本が売れればこの本も売れるだろう。


★8/10<過ぎてゆく日々のこと> 
窓の外の丘陵の上空に視線を投げて、知らずのうちに雲の奥を眺めやる。
遠くをみると遠くの出来事が浮かんでくる。
たそがれ時、あたりが薄墨色に沈んでいくなかで、黒いアスファルトの道路を霧が這う。
霧は白くながれて渦をまく。その霧を蹴散らしながら歩いた。
カルカッタの北のほう、雲の上にあるダージリンという町のことだ。
インドを占領したイギリス人たちが避暑地として開発した町で、紅茶で有名な町でもあるが、
途中までは鉄道かバスで行って、ゲートウエイの町からはジープで4時間ほど山道を登った。
40年も前のことだが、おしゃれなベーカリーショップがあった。
ヒマラヤの山並を油彩で描く欧米の画家のアトリエを訪ねた。
細密画を描く絵描き夫婦が経営する民宿風ホテルに泊まった。
当時そこはアーチストたちが観光客に作品を売る芸術家の町だったし、
チベット人の難民キャンプがある町でもあった。ダージリンはとてもいいところで、
もう一度行きたい土地をあげろといわれたら筆頭にくる。


★8/10<過ぎてゆく日々のこと> 
『ゲド戦記外伝』(ル=グウィン、清水真砂子訳、岩波書店、2006)を読んでいる。
分厚い本なのでいつ読みおえるかわからない。
アメリカ・インデイアンの村の小さな雑貨屋に入る。主人は太った中年女性で、
「あんた、どこのトライブだい?」と訊かれる。仕方なしに「トーキョー・インディアン」とこたえる。
「そうかい、それじゃあ、こういう話は知らないだろうね」と彼女はいって昔話を始める。
土地勘もない、時代もわからない、なにもかも知らないことだらけの場所での若い魔法使いの物語だ。
何がなんだかわからないうちに物語は進んでいく、それでもおもしろくて、
ついには主人公が自分に乗り移ったかのようになって、
本を読んでいないときも自分は彼のつもりでアースシーという土地のアーキベラゴ地方を流浪している。
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 8/02−04 2018 09:49
ガマ
★8/02<過ぎてゆく日々のこと> 
庭の日陰(ひかげ)で石を削ったりしたが暑くてつづけられない。
プレハブ倉庫は室内がアラビアのロレンス状態。
この暑さの中ほんとうにオリンピックをやるんだろうか。
マラソン選手にはウエアラブルなエアコンを用意しないと完走できなだろう。
熱中症でバタバタと観客が倒れたくさんが死ぬ。
そんなふうで、涼を求めて龍蔵神社にいった。
境内の隅にブロックを出して腰を下ろす。雑草がのび放題の境内をみる。
世界をこまかな光の粒子たちの振動とみるような見方がある。
陽光はそこここにきらめき、草たちのオーラはたゆたい、風景が忽然と意味をおびる。
山では人気のない場所であればどこでも美しい。


★8/04<過ぎてゆく日々のこと> 
「無」から「形」が生じる。「場」のような、ひずみのような、
ひびわれのようなものができて、「気・パワー」が集う。
「気配」が生まれる。そこから「形」が開きだされる。
朝顔の蕾が開くように開きだされた形は、最初は○△□のように単純な立体で、
組合わせによって複雑化していく。フラクタルに自己増殖してもゆくだろう。
蜂の巣と柱状節理が似ているように、性質もサイズも異なるものが形として似ているのは、
似たようなパワーの働きがあるのだと、古代の人々は考えた。
雲の形がアラゴナイト(山珊瑚)に似ているのを思うと、
向こう側から開きだされてくる形の神秘さに打たれる。


★8/04<過ぎてゆく日々のこと> 
「ありがとう、気持ちよかった」とガマがいった。
<過ぎてゆく日々のこと>に何を書こうかと、窓の外の丘陵を見ながら、頭の中を覗いていた。
石のガマがでてきた。「ああ、どういたしまして、喜んでくれてなによりだ」とぼく。
昨日、庭の水道で水浴びをさせた。ガマの滝行のお礼なんだろう。
彼は遠くからやってきた。海を越え、町を越え、飛行機に乗ったり、電車にバスを乗り継いでやってきた。
ガマの出自は月にある、そのことを考えるならさらに遠くからやってきた。
遠い昔天帝所有の月の宝物殿が出火して、そのときの事故で3本足になった。
後世の人たちは月の三相を反映しての3本足ともいう。
うちにはあちらやこちらにいろいろな種類の石彫のガマがいる。
それぞれに個性的なのでこの世にはガマ一族といえるほどたくさんのガマがいるんだろう。
彼らのことを思うとつい腹のあたりがくすぐったくなる。
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「玄太がお世話になっています」と天狗の父が言った   11:33
桔梗
<天狗の父> 
「玄太がお世話になっています」と天狗の父が言った。
「いいえ、彼はとても純粋で、遊びにくると嬉しくなります」ぼくは答えた。
「そうですか、それはよかった。玄太は少し変わった子でしてね。
人間に興味を持ち過ぎているようなところがあります」
「ぼくは人間じゃないとか?」「はっは、玄太がどう言ったかは知りませんが」
「魂に尾があるとか」「玄太もわたしも同じです。豆が芽吹くときの形に似た尾が魂についている。
わたしどもはそれを修羅とよんでいます」「修羅ですか、阿修羅の修羅?」 
「修羅は人間言葉ではいい意味ではないようですが、私どもには超脱者の証しです。
ご存知のように天狗は男社会で、修験と同じように組織と序列を重んじます。
行者たちが因習と序列に縛られているのと同じように、
天狗も験力を誇りながらそれに溺れてしまうのです。
魂の超脱者は組織の枠組みから自由でいられる。自縛の度合いが少ないわけです。
ヤマモトさんの言葉でいうならアウトサイダーは社会のヒエラルキーから自由でいられるということです。
人間ではないというのは悪い意味ではないし、生物学的分類でもないんです」
「はっは、誉められているということですね」 
これが子天狗の父とぼくとが最初に交わした会話だった。


<天狗の父> 
天狗の父は仕立てのいいダークグレイのスーツを着て、細身のネクタイをしていた。
長い睫が好男子ぶりをひきたてていた。
早い話がサングラスをとったエージェント・スミスのようだった。
ミスター・スミスのように額が禿げていなかったが。
ぼくは龍蔵神社へむかう途中の橋を渡り、
わき道にそれた先の農家の庭のガーデンテーブルに座って天狗の父と向き合っていた。
「少しも天狗らしく見えませんね」
「修験の行者姿で赤い鼻、手には団扇というあの姿ですか?」「ええ」
「はっはっは、あれはねえ、行者を畏怖した人たちの幻想と思います。玄太が天狗に見えますか?」
「いえ、確かに玄太は人間の子供だ」
「気配といいます」「はい」「モノの背後には気配がある。そうですね」「はい」
「気が集うと気配が生じる。気配がさきにあってモノが現出するともいえます」
「唯識ですか?」「そうともいえます。ただ唯識は少し理屈が多すぎるように感じられます」
「ぼくもサーンキヤのほうが好きです。似てはいるけれど」
「そうです。玄太がヤマモトさんに惹かれるのもそれゆえと思っています。
日本人じゃない。魂に尾があるんです。はっはっ」「ええ」
「意識が気配を読むときに、現実的で粗雑なレベルではモノが形を整えて、
あたかもそれがそこにあるがごとくにたち現れるというわけです。
もうおわかりですね。天狗には色身がないんです。のっけから難しい話になってしまいました」  
家の裏手から銀色のキツネがでてきて、天狗の父の横に座った。


<天狗の父> 
ひとりの男が神社に参拝して、境内で雷に打たれて死んだ。
彼には3歳と5歳の幼児と病弱な妻がいた。
そういうこともあってか、彼は信仰熱心で、朝の通勤前の参拝を日課にしていた。
男の死に対して3つの解釈がある。ひとまずの案であるけれど。
第一は神も仏も存在せず、偶然の事故と見る見方。
落雷しやすい季節に、木立ちがあり石畳の境内にいれば、被雷の可能性は高まる。
大雨の夜に水田を見に出かけて用水路で溺れるのに似ている。
第二の理由は、なにかそれ相応の理由があって、天罰がくだったとする見方もある。
天罰がくだるには現世ばかりでなく、過去世からの因縁だってあるだろう。
第三の理由は、男の信仰心に感じいった神が男を召命したということがあってもいい。
彼はそういう形で人間を卒業した。
死後に下層へと落第していく人が多いなかで、上昇できるのは喜ばしい。
神話伝承に親しむと、ヒンドゥー教でも大乗仏教でも、神道でも、
神々はそれほど人間個人の事情を斟酌しないように思える。
人はいろいろな出来事によって亡くなるが、
それがどのような出来事であったかは、残った人たちそれぞれの思い込みによる。
天狗の父との会話にこんなふうな話があった。

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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 7/28−29 2018 09:57
シトリン観音
★7/28<過ぎてゆく日々のこと> 
昨日は一日、HP掲載製品のコメント書きや入力に費やした。
外出もせず昼寝もせず、机の前に座りつづけた。
そうやって観音頭部パーツ(アウトレット/天然石加工品に掲載)のやさしく慈愛いっぱいのお顔を見て、
やっぱり、なんで、ここで、人間をやっているのだろうと考えてしまった。
こんなところへ墜ちてくるなんて、どうしたことなんだ(冗談だけど)。
人間の葛藤の半分以上は対人関係にある。話し相手がいなければ寂しい。
他人が自分を正当に評価してくれなければ腹立たしい(つまり自己評価しているように)、
その上、望みもしない人たちとの付き合いはいらただしい。
自分は大乗仏教徒じゃないので慈悲ということがよくわからない。忍辱ということもよくわからない。
どうやったらアホを愛せるのかもわからない。そんなこんなを考えながら観音菩薩を思う。
窓の外の丘陵の上にゴジラのように巨大な姿をあらわす観音菩薩の姿を幻視すると、
彼/彼女はとがめもせずただ笑みを浮かべている。


★7/28<過ぎてゆく日々のこと> 
自分が30代、40代だったころ、
未来のどこかで自分が70歳の人生を生きているなんて考えたこともなかった。
取材先で高齢の方に会う機会があり、彼らの人生の多彩さに感銘を受けることはあっても、
自分が老人になるなど思いもよらないことだった。
そうやってたくさんの年月を経て、今度は30代、40代の人たちから、取材を受けたりする年齢になった。
かつて自分が老いた人たちを見ていたのと同じように、彼らから見られていることを想像すると、
順送りの生命の連鎖といういことに思いあたる。
なにがしかの縁でなにがしかの関わりがある若い人たちには、
彼らが実りのある人生を歩んでくれるよう願うばかりだ。
そうやってぼくのなかのいくらかは彼らのなかに残っていく。


★7/29<過ぎてゆく日々のこと> 
ずーっと修験道のことを考えている。かつて取材してまわった霊能力者の何人かは修験の行者だった。
霊媒に降りた霊の託宣を拝聴したことがある。
向こう側の世界からテレポーテーションしてきたという小刀を見せてもらったこともある。
霊山での修行の話をいろいろと聞いた。誘われて滝行したこともある。
それでも修験道にはあまり関心をよせてこなかった。
天狗に興味を抱いて関連本の1、2冊を手に取った。
修験道が仏教を軸に神道・道教、民間信仰が渾然一体となった信仰であることがわかり、
その中心にシャーマニズム的な霊的世界との交流があることがわかった。
古代の人たちにとって未来の不安定さは耐えがたいものだった。
祖霊や精霊を招き、彼らの声を聞くことで明日を生きるよすがとした。
縄文時代も弥生時代もご先祖たちは霊の声を聞いた。
招霊がアジア的な宗教の原点で、それが修験道に残っているところが意義深い。
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子天狗と散歩して刹那加持を習う 10:05
ホタルブクロ
<子天狗> 
玄太がやってくる。「元気にしてた?」ぼくは訊く。「うん」彼は応える。
「じいさんが亡くなった」「えっ、じいさんがいたのか?」「うん」
「幾つで亡くなったの?」「180歳」「えっ?」「天狗は人間の倍くらい生きるんだ」
「そうか、で、親しかったの?」「うん」「そうか、でも仕方がないよ。
みんなちょっとの間、こちら側にいるだけなんだから。でも、寂しくなるね」「うん」
「どんな葬式だったの?」「天狗は葬式はしないんだ。死期を悟ると森に入っていく。
さらに深い森へと入っていく道があって、そこにいった者はもう戻ってこない」
「へぇー、異文化の話だ」「それがね、昨日、じいさんはおいらのところに戻ってきた。
すごく嬉しそうな顔をしてやってきて、すぽっとおいらのなかに入った。
小さな光の玉となっておいらの胸にいて、おいらといっしょになっている」
「そういう光の玉を見たことがある、自分のなかの自分だ」「うん」
「じゃあ、もう大丈夫だね」「うん」 風が吹いて焚き火の炎が倍ほどの長さに伸びた。
炎の舌が虚空をなめた、「ほら、じいさんが同意している」玄太がいった。



<子天狗> 
玄太とつれだって近所の湧き水まで散歩した。
山道の土手の岩の隙間から清水がわく箇所があって、山の持ち主がかけひを設けて、
ペットボトルやポリタンクに水をくめるようにしてある。
アジサイやツバキの花や、ヒメジョオン、ユキノシタ、ホタルブクロなどの野草の花を見かけると、
玄太はひょいひょいと触れて歩く。
「何をしているの?」ぼくは訊く。「せつなかじ」彼が答える。
「せつないの?」「違うよ、刹那の加持。まあお祈りの一種だ」
「へえ、それって何?」「一瞬のうちに、ほんとうは瞬間よりも短い時間、木や草に触れて、
あんたはぼくと兄弟だ、ぼくらはともにこの星に生きている、
ぼくが元気でいるように、あんたも元気でいるよう願う、というふうに祈るんだ。
まあ、そんなにたくさん祈れないから、仲良くしようね、と祈る」「ふーん、すごいね」
「するとね、草や木や虫や蝶や鳥たちと仲良くなれる」「うん、愛のパルスが飛び交うんだ」
玄太たちはそういうことを塾でお師匠から習う。
木や草に挨拶すると、自分が木や草へと広がってゆくという。
泉に着いて、わき水を手のひらに受けて飲んだ。甘みのある冷たい水だった。
帰り道はふたりでいっしょになって刹那加持した。
刹那ごとに放出される祈りの念が無数にはじける小さなパルスとなって田舎道を染めていった。


<子天狗> 
仏壇に灯明、線香をあげて、ぶつぶつと般若心経をとなえていた。 
「おじさん」とゲンタが庭先から呼んだ。「何をしているの?」
「仏壇にお経をあげている」「何で?」「何でって、親がどこかで生まれ変わっているのなら、
辛い思いをしていないよう願っている。お経のパワーはそっちのほうに飛んでいって、
生まれ変わった者が元気で暮らせるよう力添えするんだ。チベット仏教の教えだ」
「ふーん、こないだおとうの友人が来ておとうと話していた。
人間たちのなかにはいつまでも死者の足をひっぱる者がいる、困ったことだって」
「へえー」「どんなに可哀相な死に方をしても、それはカルマなんだからしかたがないって。
死にきることで新しくなれるのに放してやらないと死にきれない、後ろ髪をひっぱるのと同じなんだって」
「そうだね」「ああ、だからお経は生まれ変わった人のためにあげるんだね」
「うん、より詳しくは、仏さんを褒めそやして、うちの身内をよしなに扱ってくれと頼むんだよ。
玄太のおとうってなかなか立派な人だね」
「おじさん」「うん?」「そのうち、うちに遊びに来てよ、おとうも喜ぶ」
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ    7/13−21 2018 10:25
ヤマユリ
★7/13<過ぎてゆく日々のこと> 
いまは夕暮れ時、コンクリートのアパートの窓の向こうの丘陵が黒々とした碧玉色に変わり、
ヒグラシが鳴いている。昨日までの数日間は遠慮ぶかげだった。
なのにきょうはわが世の到来とばかりのセミ時雨れ。
幼かったころ、母の実家の墓参りにはヒグラシが四方八方ワンワンと鳴きちらす竹林を抜けていった。
だからヒグラシは弔いのセミと思いこんでいる。
夕方のわびしさのなかで鳴くということもあるんだろう。
誰であろうと人は必ず死ぬ。死に際がどうであろうと死ぬことに変わりはない。
死んでしまったならばくっきりと死にきって、どこか違う世界で新しい人生を始めるのがいい。
そんなふうに思ってきた。
考えてみると、子供のころから死ぬことの不思議さに魅せられてきたような気もする。
仕事をしたり遊んだり、そうした日常的な行為は生きている時間に属している。
それに対して本当に美しいものや、超絶的に甘美なものや、
神秘的なことどもは死の領域に属している。


アナグマ
★7/18<過ぎてゆく日々のこと> 
庭で日本翡翠の原石を撮影していた。強い日差しにあぶられたちまちにTシャツが汗に濡れる。
フライパンで焼かれるハッシュドポテトの心境だがやむを得ない。
直射日光のもとでは写真のコントラストが強くなりすぎる。
日陰(ひかげ)では青くかぶってしまいやすい。
ほどよい日陰を探し、重い原石をかかえて右往左往せざるをえない。
朝の時間が過ぎるにしたがって身体に疲労が蓄積されていく。
手にした原石を投げ出したい、もう休みたい、と思ったそのときだった。
庭の外れの獣道にタヌキほどの獣の背が動いた。急いでカメラを望遠にした。
待つ時間もなくストッカーの横から、狸にしては鼻の長い獣が顔をだした。
ハクビシンであるらしかった。
愛想のない奴で、二度目のシャッターを押す時間もないまま、素通りしていった。
コンニチワぐらい言えばオイルサーデンの缶を開けてやったものを。
(あとでアナグマだと教わった)


モリアオガエル
★7/21<過ぎてゆく日々のこと> 
岩を伝うつる草にモリアオガエルのフィギュアを置くと、まるで生きているかのように見える。
庭の水道の汚水溜まりに、梅雨の季節になるとモリアオガエルが卵を産みにやってくる。
なのに今年は淡雪に似た卵塊を見かけなかった。
汚水溜まりは土中に甕(かめ)が埋めてある。それが割れて、溜られる水量が半分ほどに減ってしまった。
それでカエルに見放されたらしい。
カエルファンではあるけれど、モリアオガエルもカジカも姿を見たことがない。
ズボラでなまけものの山のファンには、自然の営みがただただ不思議に見える。
夏の到来を告げるホトトギスはどこかへ行ってしまった。昨夜は遠くでフクロウが鳴いていた。

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その日子天狗は町に行き、夜はおとうとミズチを見にいった  11:04
龍蔵神社
★6/26<子天狗> 
「昨日ね、バスに乗って町にいってきた」玄太がいう。
「ひとりでか?」「いや、藤太といっしょだ。友だちだよ」
「おもしろかった?」「うん、外国人がいっぱいいた」「へえ」
「日本語じゃない話し声が聞こえてくるんだ。それで顔を見ると、日本人と同じ。
なのに知らない言葉をしゃべっている」
「ああ、香港、台湾、中国、韓国、いろんなところからいろんな人が来ている。
マレーシア、シンガポール、ネパール、インドネシアの人たちも顔立ちは日本人と変わらない」
「いろんな国があるんだ。ゲーセンへ行ったし、本屋にも行った」
「本屋か?」「うん、おいら、図鑑を見るのが好きなんだ」「へえ」
「クラゲやウミウシや、超きれいな動物がいっぱいいる。それでね、帰りはバスを間違えた」
「迷ったのか?」「そうでもないけどね。知らない通りを進んでいって、迷ったぞ、と藤太に言ったんだ」
「それでどうしたの?」
「うん、途中で降りて飛んで帰った。おもしろかったよ。また行くんだ」


★6/26<子天狗> 
龍蔵神社の境内の隅のブロックに腰を下ろして斎庭を見ていた。
遠い昔、平安時代か鎌倉時代のどこかの地点、そこには土俵があった。
村の若者たちが相撲をとって、神々にというより女衆に力自慢を誇示した。
土俵が脳裏に浮かんで、相撲取りをはやしたてる喚声が聞こえてきそうだった。
土俵に入ってくる玄太を目にした。手にはカラスの羽根を1枚持っている。
「よくここにいるってわかったね」「そんな感じがしたんだ」
「カラスの羽根など持って、いよいよ烏天狗になるつもりか?」
「そんなんじゃないよ、今日お師匠に空中浮揚の術を習ったんだ。
人間の形のまま、そういうことをするのは難しいんだ。見せてやろうか?」「うん」
「ほんとうはね、人間に見せてはいけないんだ。けれど、おとうがいうには
おじさんは人間じゃないから大丈夫だ」
「えっ、人間じゃないって?」「豆の芽みたいに魂に尾がついている」
「オタマジャクシみたいにか?」「そう、修羅の系統なんだって。おとうも自分も修羅だといっていたし、
おいらも修羅の血筋なんだって」 
玄太は烏の羽根で自分をあおいだ。聞きとれない声で呪文を唱える。
にぎりこぶしひとつ分ほど彼の身体が浮いた。
見えない土俵の中央まで滑っていくと、そのままぐるりと逆立ちした。Tシャツがめくれた。
「ひゃー、みんなさかさまに見える」 彼はいってケラケラ笑った。


★7/03<子天狗> 
「ミズチを見にいってきた」玄太がいった。かれは突拍子もないことをこともなげにいう。
「ミズチって尻尾がふたつに別れているトカゲのお化けのことか?」
「そう、千年経てば龍になる龍の子供、トンボに対するヤゴのようなものだ」
「どこで?」「龍蔵神社の上のほうだよ」
「おとうがミズチを見に行こうと言った。藤太と3人で行った」「へぇー」
「大雨の夜、龍蔵神社の女神さまはミズチに乗って川を下る」 ぼくは龍騎観音を思い浮かべる。
「違うよ、乗るっていうのは憑依することだ。
川の水が増えてごうごうと流れるなかをミズチは水にもぐったり、半身ほどを水から出たりして、
しっかりと水底(みなぞこ)の岩を掴み、ガッシガッシと川をくだるんだ」「すごいな」
「うん、すごくすごい。女神さまが乗るとミズチの身体が青白く光る。
背中を流れる水が稲妻のように光るんだ。おとうと藤太とおいらの3人は、木から木へ飛び移って、
ミズチを見失わないように追いかけた。ほんとうにドキドキしてすごかったよ」

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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ  6/27-7/07 2018 08:31
アサガオ
★6/27<良寛追想> 
良寛は子供好きで知られる。
外出時には手毬、おはじきの持参を欠かさず、本気になって子供たちと遊んだ。
子供と遊んで我を忘れた歌がたくさん残されているが、子供と遊ぶ、
その態度は自分も子供になりきってのことで、大人が子供の相手をしてやるというものではなかった。
良寛の子供好きは、故郷に帰ってからのことで年代的には中年になってからであるようだ。
子供と遊ぶことでブッダの膝元へ意識が開かれていったということがあったのだろう。
インドを旅行しはじめたころ、公園や寺院の周辺で出会う子供たちの純真さに幾度も心を打たれた。
50年ほど前のことで、その当時ですら日本人の子供は「小さな大人」のようで、
それに比べたら、かのちの子供たちはほんとうに子供子供していて、
幼いクリシュナが内側に住んでいるようなきらめきがあった。
良寛が子供たちに見たのも、このような神々の宿りのような味わいだったと思う。
それは現代の大人がイメージする子供像とはまったくもって同じものではなかった。

★7/02<過ぎてゆく日々のこと> 
朝は朝顔の花にあいさつすることではじまる。白と紺のかすりもようが今年の新顔。
朝顔は風と光が編む。
触れればすぐさま壊れてしまうあやうさに『火星年代記』の火星人夫婦を思い出す。
透き通った人たちで、夫は蜂の振動音がする銃を持って狩りにでかける。
やがて人類は彼らの遺跡を発見するだろう。
インダス文明の遺跡にブーゲンビリヤが咲いていたように、
火星人の遺跡には、見渡す限りの赤い荒野のなかで、そこだけ朝顔が咲き狂っている。


★7/07<過ぎてゆく日々のこと> 
きょうは七夕。1月1日、3月3日というように同じ奇数が重なる節句のひとつ。
数字のパワーが倍増される日だ。
なぜ7の夕とかいて「たなばた」と読むのだろう。ふときになって辞書を見ると、
たなばた[棚機・七夕]とある。
古い時代の原始的な布を織る道具を棚機(たなばた)と読んだ名残らしい。
伝説では天の川を挟んで男と女が年に一度逢瀬を楽しむ日という。
自分の年を考えるなら、そういうことは3世紀も昔の出来事になってしまったけれど、
70歳を過ぎて良寛は、始めて女との逢瀬を待つもの苦しさに直面した。
老いて後の良寛は書と詩と短歌の能力ゆえに地方の有名人だった。
良寛よりも40歳年下の貞心という尼僧は向学心の強い人だった。
良寛に弟子入りして仏道や和歌について学びたいとあれこれ画策したという。
会ってみるとその妖艶な艶姿(たぶん?)と打てば響く知性のゆえに、
良寛はすっかりと彼女が気に入ってしまった。
貞心尼は良寛の没後5年かけて、良寛の和歌や彼女と彼との贈答歌をまとめて
『はちすの露』という歌集を作った。それがたまたま再発見されて、
私たちは良寛の精神宇宙に触れることができる。
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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ  6/25-26 2018 10:43
水晶大珠
★6/25<過ぎてゆく日々のこと> 
夜10時過ぎ庭に出た。渓流の上で爪楊枝の頭ほどの光の点が動くのに気付いた。蛍だった。
1キロほど下流に観光農園があって、今の季節蛍の夕べを売り物にしている。
そこから渓流沿いに旅立ってきた無法者なんだろう。
川の上の闇に小さな光る点が現われて、腕の長さほど線を引いて消える。
少し離れたところに再度光が現れて、すーっと線を引いて消える。
蛍は2匹いて、川上にむかって光の線を点滅させつつ消えていった。
翌朝、水晶大珠を撮影しようと渓流に降りた。
シロウト考えに蛍の幼虫を見つけられるかもしれないと浅瀬に目をやった。
たくさんの小さなオタマジャクシがいた。全長が15−20mmほど、黒い頭から伸びた小さな尾を振り、
短い距離を素早く動いて止まる。そんな動作を繰り返していた。
(彼らもまた生きていくのに忙しい)


★6/26<過ぎてゆく日々のこと>  
目覚めたら朝が新しくなっていた。ガシッとした夏の朝だった。
喜びに胸がふるえたり、希望でいっぱいになるということはないし、
ラジオ体操したくなるということは金輪際ないけれど、
窓辺の石たちを陽射がなめて、アジアの朝が目の前いっぱいにひろがっていた。
庭にインドの線香をたてて郷愁にひたった。
以上、ラジオ体操の歌を知っているといいのだが(そうじゃないと、この記事は意味不明)。
子供のころ夏休みは近所のお寺に集合して、境内でのラジオ体操が義務付けられていた。
人に指図されたり、集団行動するが苦手だったので、大嫌いだった。
夏が好きになったのはアジアへ旅行するようになってからで、以来夏が故郷になった。


★6/26<過ぎてゆく日々のこと> 
人生の折り返し点というものがある。
人に限らず、あらゆる生き物がちょっとの間こちら側にいて去っていくだけのことだから、
だれもが経験することだ。
知性はまだ育つ気配がある、けれど身体的には、暮らしてきた距離よりも
これから先のほうがはるかに短いことを悟る。
自分の場合は、一軒の家からあふれんばかりになっている本をなんとかしなくてはという思いがあって、
本の整理が大きな課題になっている。
山の家に運んで以来そのままになっていたボール箱を開ける。
昨日はそこからたくさんのハードカバーSFがでてきた。
ル=グウィンよ、お前もか、といった雰囲気で、名前を見知っている作家たちの作品だ。
愛着があり、捨てるにしのびがたくて、保留のコーナーに積んでおくことにした。
こういうのって、SFに限らず、宮沢賢治関連の資料とか、
オカルティズムの古い書籍やヒーリング関連の文献などなど、
それぞれの分野の研究者にとっては宝物になるんだろうに。
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