鶯谷駅下車、坂を下ると賢治がいる?■宮沢賢治の写真 | 13:40 |
あまりに有名なコート姿の賢治の写真は、大正15年初めころ、
そろそろ農学校の教師を辞めるという時期に撮影されたという。
ベートーベンが大好きだった彼は、
レコードの意匠のベートーベンの姿を模倣したといわれている。
下の写真はJR山手線・鶯谷駅の坂をくだったところ。
画面ほぼ中央、日の当たった部分あたりに国柱会館があった。
宮沢賢治に興味を抱いてからずいぶんとたくさん彼の資料を集めた。
書名を書き写すのが面倒で、『宮沢賢治と天然石』では巻末に参考資料を列記しなかった。
リスの時代から持ち越されてきたコレクター癖があるので資料集めは楽しい。
それにライターだった時代に培った資料集めの能力への自負のようなものがある。
この能力はときに超能力に似たところがある。
(リスとライターだった時代の間には1億年くらいの時間の開きがある)。
集めた資料の多くはパラパラとめくった程度のものが多い。
なかには必要箇所を抜書きして丁寧なメモを作ったものもある。
そんななかに『毎日グラフ別冊・宮沢賢治・春と修羅』(毎日新聞社、1991)というのがあって、
東京での賢治を特集したページに見覚えのある写真があって、ギョッとした。
それはJR山手線の鶯谷駅を降りて坂を下ったあたりの写真だった。
キャプションには国柱会会館跡とあった。
知り合いの会社が移転して、ちょうど賢治に興味を持ったころから、
3、4ヶ月に一度は通るようになった場所だった。
近くのドトールでサンドィッチを食べたり、
パキスタン人のレストランでカレーを食べたこともある。
だからあそこで賢治がそっとぼくの左肩にのったんだと思うと、
妙に腑に落ちるものがある。
宮沢賢治の青春は親の思惑に呑まれまいとする思い一色だった。
彼は世界ぜんたいの幸せを念じて無私無欲な人生を理想とした。
そんななかで父親に対してだけでは断固として恭順せず、滅私奉公したり、
自己犠牲することを拒んだ。
親との諍いがあまりに激しくなって、ストレスのあまりに不気味な幻覚をみる始末。
ついに彼は東京の国柱会という新興宗教団体を頼って家出する。
家出しておきながら、父親にこまかに状況を報告する奇妙な家出ではあったが。
(この親子には時代背景を加味しても理解しにくい親密さがある。
ぼくが肉親に薄情なだけかもしれないが、それでも彼らの関係を追想すると、
骨を同じくした古代中国の男たちが思い出される。)
国柱会は日蓮宗を主軸とした団体だったが、かなり右翼的なところもあった。
たぶんそのせいだったんだろう、左翼思想に共鳴するところが大きかった賢治は、
ここでは友だちにであった気配がない。
午前中はパートタイマー、午後には国柱会での奉仕活動や、国立上野図書館で勉強、
夜は下宿にこもって童話を書くという孤独な8ヶ月間を、彼は送った。
いまとなっては大正モダニズムの面影を探すことはできないが、
鶯谷駅を降りて坂を下ったり、駅から反対方向に折れて国立博物館へ行く道は、
賢治には通いなれた道だった。
世の中には奇妙な偶然というのが多々ある。友人が会社を移転しなかったら、
ぼくは鶯谷駅で下車することなど決してなく、
ひょっとしたら宮沢賢治についての資料を集めることもなく、
盛岡や花巻へ行くこともなかったかもしれないと思うと、
とても奇妙な感じがする。