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『宮澤賢治と天然石』はみだし分・1■恐竜の骨化石の写真 12:38
恐竜の骨化石

手前は恐竜のピンバッジ。後ろはアリゾナ州あたりで採れたほんものの恐竜の骨化石。
賢治のイメージ世界では巨大さという点において恐竜と菩薩・如来が同一視されることがある。
恐竜もしくは絶滅した巨大哺乳類を幻視するうちに白い素足の如来に変じていったりする。


今週の金曜・土曜、9月17−18日は店を営業します。
開店時間は午後1時ー8時まで。
いくらか過ごしやすい季節になりました。
散歩がてらにご来店ください。



今日のブログはメルマガ9月号の採録。ここに記録しておくのが個人的にはいちばん便利。
当社メルマガは読者プレゼントあり、メルマガだけのお買い得セールありで、なにかとお得です。
 

賢治は彼が働かなくても困らない裕福な家に生れて育った。
あえて貧乏人のふりをする時期があったにしても心底お金に困ったことは一度もない。
彼に対して清貧の農村詩人というイメージを抱く人がいるとしたら、
それは後世に作られたものである。
賢治の純粋無垢さは生涯ピーターパンでいられたことによるようにみえる。
 
以下は『宮沢賢治と天然石』のはみだし分。原稿の量が増えてしまって割愛した。
ブログに掲載するにはかなり長い。
 
この章のタイトルは「あまりに特異な賢治の金銭感覚」
 
後世に語られるようになった賢治神話では、彼は「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べて」
清貧な日々を送ったかのように表現されている。
年譜やエピソードを追うと正反対といってもいいほどの賢治の姿が見えてくる。
 
賢治にはいい家柄のお坊ちゃん然としたところがあって、
金銭感覚は庶民の暮らしとは大きなズレがあった。
 
東京に家出しての一人暮らしでも父が送ってくる為替を拒否したのは最初のうちだけで、
関徳弥への手紙で、毎月のように十五円、二十円と実家から援助を受けたと告白している。 

教師を止めたあとの羅須地人協会時代には、母親の差しいれも拒んで果敢に貧乏暮らしに挑戦するが、
なんだかんだの借金は結局実家に穴埋めしてもらった。
 
自費出版した『春と修羅』の経費は父親が負担したし、
童話集『注文の多い料理店』が売れず同情心から、自著を出版社から買い取る際にも
実家のお金をあてにした。父親は息子の職業選びに厳しかったが、
金銭面だけみれば息子を溺愛していた。
               *
『文芸読本宮沢賢治』(河出書房新社、1977)に森荘已池は
賢治との出会いのいきさつを「店頭」と題して寄稿している。
『春と修羅』を読んだ若き日の森は、同人誌への寄稿依頼の手紙を賢治に送る。
賢治が教師になって四年目のことだった。賢治は雪の降る日に盛岡にあった森の実家の八百屋を訪ねる。
賢治は森は自分と同年輩と思っていたのに、彼の生徒と違わない若さなのに驚く。
近くの店に行こうということになって、西洋料理店に行って個室に席をとる。
森にとってはナイフとフォークを使う始めての西洋料理だった。
賢治は相手を楽しませようとする気配りの人なので、ベートーベンや法華経、
非ユークリッド幾何学などの話を洪水のごとくに繰りだし、直立して歌も披露した。

「『さあ帰りましょう。ご迷惑をお掛けしました。』というと、その人はポケットから
ハトロン封筒をとり出した。それは、ふくらんで、ずっしりと重い銭でも入っているようであった。
草花の種か、穀物でも出すように、ざらざらと、テーブルの上に小さな山をつくった。
全部が十銭銀貨であった。『これで、少しはよけいにあると思います。』といって、
女給も出て来ないのに、その西洋料理店大洋軒を出た。牡丹雪は、まだ降っていた。
人の通らなくなった道に、雪はもう一尺近くつもり、私はまた番傘をさした。」
                  *
盛岡高等農林学校研究生だったころ、稗貫郡の土性調査にあたった賢治の態度についての
郡長・葛博の回想記から。
「賢治君の困った事はかく山野を跋渉して難儀して土性の調査に従事しながら旅費も弁当料も
絶対に受取らず、暇で覚えたことで郡のために働くことは当然だというて相変らず丸飯持参で
働いてくれるのには余り気の毒で困り抜き候。勿論手当てなどは受取らずに終り申し候」
(『宮沢賢治・詩と修羅』毎日グラフ別冊、1991)
               *
賢治のもと生徒であり、演劇『ポランの広場』で山猫博士を演じた晴山亮一が語った、
賢治の樺太旅行でのエピソード。
「……先生は、この旅行で、生まれてはじめて、あとにも、さきにもないことに、
出会ったんです。友人が料亭に先生を招待して、芸者を呼んで、さかんな宴会をしたんですね。
大騒ぎで飲めや唄えとやったのでしょう。ところが先生は、そういう方面の芸は、ゼロといった
情けない方です。そこで懐中にあった金を全部お祝儀に芸者にやってしまったのですね。
汽車賃もなくなったので、青森までの切符は買ってもらい、青森では、何か身の回りのものを
売ったりして盛岡まで汽車で帰り、盛岡からは花巻まで徒歩旅行というわけです。
ほんとうに、行きはよいよい帰りは辛いで、大名旅行が、乞食旅行になってしまいました。」
(『賢治の肖像』)
               *
とし子の介護をしていた細川キヨが森に語った賢治ととし子の会話の断片。
「いつか汽車のなかで、困る人をみて、五十円も金をやりたかったけれど、
二十円しかなかったので二十円くれてやったと賢さんが話したことがありました。
としさんはその話をきいたとき、『賢さんに、おらほのいえのあとをつがれれば、
おらほの家は、かまどかえすごった。』といいました(注・賢さんが、私の家のあとつぎになったら、
私の家は破産してしまうだろう)。人にばかりつくしていて、そのほかのことは
考えないのだからといっていました。」(『賢治の肖像』)
               *
賢治の通夜の席での父・政次郎の話。
「あれにとっては、三円も三十円も三千円も、金というものはみなおなじで、
自分の持っているだけ、人にやってしまうという性質(たち)でした」(『賢治の肖像』)
               *
賢治の金銭感覚が常人離れしたものであることを語る逸話がたくさん残されている。
学校で演劇をやれば費用は全部自分で持った。農民のための講習会や肥料設計には
一銭の謝礼も受け取らなかった。石灰岩のセールスマン時代には赤字がでると
自分で補填することもあった、などなど。
 
まるで人間社会に紛れこんだ異星人であるかのようにお金勘定できない人がいる。
頭では計算できていても、いざとなると違う目的に使ってしまったり、
後先見ずに高額な買い物をしたり、とそんなふう。現代的には困った人たちだ。
けれど、人類が貨幣経済を編みだしたのは時代的に新しい。
心が先祖返りした人のなかには、お金という概念に不慣れな人がいるということかもしれない。
| 宮沢賢治と鉱物(天然石)変性意識 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by YK
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