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不気味で稚拙な子持ち勾玉の謎をめぐって■ピンクヒスイ勾玉の写真 12:45
ピンクヒスイ勾玉
写真は淡い色合いのピンクヒスイ勾玉38ミリサイズ。特別な愛称を模索中。
まだ10個以上の在庫があるはずなので、
なるべく早くに「今月の新製品」で紹介したいと考えています。
 
週に3日店を開けての店番、週1回ホームページへの新製品掲載を目処にしていると、
それだけで手一杯ということになりやすく、
なかなかセール・カタログを制作してのセール開催が出来ないでいます。
かといって以前のようにスタッフを二名入れられるほど売り上げも上がっていないので、
いろいろなことがもどかしいままです。

 
子持ち勾玉とよばれる不気味な勾玉がある。おもに5−6世紀の古代遺跡から出土する。
勾玉が通常3センチ前後であるのに対して、子持ち勾玉は5〜10センチと大きい。
勾玉の背中や腹に小さな豆状のものが幾つかくっついたり、突起が並んでいる。
 
獣形勾玉から発展してきたと考えられているが、見様によっては魚の形に見えなくもないので、
本当にこれが勾玉として意識されていたかはどうかは定かではない。
 
素材の多くは滑石で水晶や日本翡翠製品はない。作り方も雑で稚拙、出土状況からみて、
宝飾品として身につけたのではなく、祭祀の供物であったらしいとされている。
 
動物が子供を産むように石も子を産んで増えるという信仰があって、
子供を産む勾玉を神々に提示して、
これこのように豊作にしてくださいと願ったんだろうか。

「祭祀の供物」と書くと、なんとなく使用法をわかったつもりになるが、
仏教の伝来以前のこのクニにどのような信仰があり、どのような神々が祭られていて、
どのような儀式があったのか、まったくといっていいほどわかっていない。
呪術が文化の基本だったので、子供が生まれる、種蒔きをする、戦争に出かける、などなど、
なにごとであれ最初に神祭りがあったはずだが、その具体的様相がわからない。
 
当時は神々が常駐する神社という建物もなかったはずで、
資料を確認しなければ確証できないのだが、
神社に先行したはずの鳥居もいつごろから建てはじめられたのか定かではない。
 
沖縄の御岳(うたき)と同じような場所で神祭りは行われ、
住居のなかにも聖所があったことだろう。
 
祭祀では祭壇が築かれ、呪文によって神々が招かれた。
現在の神道儀式で玉串を捧げるように、家内安全・商売繁盛を願って酒などを奉納するように、
子持ち勾玉が捧げられて五穀豊穣が願われたと想像するのが一般的だが、
本当にそうだったのか否かは確認できない。
 
こうやって眺めてくると子持ち勾玉は謎だらけで、研究資料も多くはなかった。
最近になって、『祭祀考古学の研究』(大平茂、雄山閣、2008)という本のなかに
「子持ち勾玉の分類・編年」の論文を見つけて、
これでやっと、子持ち勾玉についてなにがしか考えをまとめられると思っている。
 
5−6世紀の日本列島というのもよくわからない時代で、
神々の神託に基づく政治(まつりごと)から、法律による統治への過渡期にあった。
主要豪族による合議制政治から天皇による専制政治への過渡期でもあったようだ。
 
簡単には卑弥呼の邪馬台国は3世紀なかば、大和王朝の誕生は4世紀くらい、
5世紀は倭の五王の時代で、大和朝廷は朝鮮半島の覇権争いに終始した。
朝鮮半島南部の鉄資源を得るために日本翡翠の勾玉がたくさん輸出された。
 
6世紀始めに継体天皇が即位して、やがて蘇我氏が勢力を誇るようになり、
6世紀なかばに仏教が公伝、6世紀終わりころ聖徳太子(574-622)が摂政になる。
7世紀なかばをすぎて、天智(626-671在位668-671)・天武天皇(-686在位673-686)・
持統天皇 (645-702在位690-697)の時代になっていった。
 
勾玉は中国の律令制度を移入した政治体制のもとで消えていく。
勾玉が失われていく最後の時期に、
列島の土着宗教は朝鮮半島や大陸の影響のもとで揺さぶられ、
子持ち勾玉や石製模造品を神々に奉納する様式が誕生したのかもしれない、
と想像すると謎は深まるばかりだ。
| 日本翡翠・糸魚川翡翠勾玉(まがたま) | comments(0) | trackbacks(0) | posted by YK
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