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翡翠の女神・ヌナカワ姫の原像を求めて 19:14
緑色凝灰岩
姫川薬石

写真上は糸魚川市市振海岸で採集した緑色凝灰岩。
岩石の鑑別はとても難しいので、自分ではそう思っている。
弥生時代の翡翠勾玉は、緑色凝灰岩製の管玉でつなげてネックレスなどに仕立てた。
『古事記』では「五百箇(いおつ)のみすまる」とよばれている。
写真下は親不知海岸で採集した姫川薬石。
2千年ほど前の書体で「乾坤独歩(けんこんどっぽ)」と書いてある。
禅的に生きるなら天地の間で勝手気ままに暮らせる、というような意味。

 
翡翠の歴史は紀元前後を挟んでおよそ4千年間に渡っているので、
翡翠をめぐる話も長い。これまでのところをおおまかにまとめると以下のようになる。

(1)日本列島では縄文・弥生・古墳時代にかけて、
呪術的な聖具、強力無比なお守りとして翡翠製品が作られた。
縄文時代にはおもに翡翠製大珠(たいしゅ)とよばれる楕円形の装飾品が作られ、
東日本を中心に流通した。
弥生・古墳時代にはたくさんの勾玉が作られて、西日本を中心に愛好された。

5千年前という超古代に翡翠文明が栄えたのは世界ひろしといえども日本だけのことだ。
中国大陸ではほぼ同じ時代に玉(ぎょく)文明が始まっているが、
彼らが愛玩の対象としたのはおもにネフライト(軟玉)だった。

(2)日本神話に端を発する皇位継承の品・三種神器のひとつに勾玉が選ばれていて、
八尺瓊勾玉の素材も日本翡翠と思われる。

(3)日本列島での翡翠文明は奈良時代に消滅した。
以後20世紀になるまで、翡翠が日本列島で産出することは忘れられたままだった。
それまで遺跡から出土する翡翠製品の原料は海外から持ちこまれたと考えられていた。
「日本列島に翡翠原石の産地がある」ことが広く認知されるようになったのは、
1955(昭和30)年に、新潟県糸魚川市の翡翠原産地が
国の天然記念物に指定されてからである。

(4)日本産の翡翠原石は列島全部で4−5ヶ所の産地が知られているが、
勾玉などが製作できる高品質な原石の産地は
新潟県と富山県の県境・糸魚川地方に限られている。
古代の遺跡から出土する翡翠製品はほぼ全部が、これらの産地の翡翠原石が使用されている。
現代でも翡翠原石が採集されるのは、糸魚川市の姫川・青海川流域と、
糸魚川市と隣の富山県下新川郡朝日町の通称ヒスイ海岸に至る海岸地帯に限られている。

(遺跡出土の北海道の日高翡翠、九州の長崎翡翠という翡翠類似製品の一部に、
これら現地産の本物翡翠原石がまざっているという話がある。)

(5)日本翡翠による勾玉の製作がもっとも盛んだった古墳時代には、
いまの糸魚川市を中心に新潟・富山県一帯は越(こし・高志)とよばれていた。
後になって越は越前・越中・越後などに分断されていく。
オオクニヌシの別名とされるヤチホコが求婚しにくるヌナカワ姫は越(こし)に在住していた。

(越中フンドシは海洋民族・倭人の装束で、もとは長江下流域の
越・えつから伝来してきたという意見を読んだ記憶がある。
中国では現在の広東省広州市あたりが南の越で南越、越の南は越南でベトナムになる。)

 というのが、これまでのまとめで、ここから次のような疑問が浮かんでくる。

(1)神話と古代史がどの程度シンクロするのかは、
どこの国の古代史においても興味尽きないテーマであるが、
考古学的な出土品などから類推して、オオクニヌシ的出来事はいつ起きたのか? 
オオクニヌシは本当に翡翠(青丹)が欲しくて越との間に交易路を開こうとしのだろうか? 
というのも考えなくてはいけない。

(2)ヌナカワ姫が翡翠の女神として象徴的に扱われるようになったのは、
前記したように翡翠産地が天然記念物に指定されて以降のことだ。
想像するに経済の高度成長時代にあって日本中が総観光地化されてからのことで、
それ以前の時代には、そもそも糸魚川地方と翡翠産地を結びつける人はいなかった。
ヌナカワ姫の木像が残るところからみると、彼女は港の女神として、
平安時代あるいはそれ以前の時代から祭られてきたし、
姫の名にちなんで姫川も命名されたのだろう。
万葉集では日本翡翠は「ヌナカワの底なる玉」と歌われている。
 
女神としてのヌナカワ姫の原像は、卑弥呼のような巫女王、
もしくは母系社会的な女首長だったのだろうか、
あるいは奈良時代的な豪族の娘だったのだろうか? 
それに巫女王というのはそもそもどのような存在だったのだろう?
 
江ノ島の弁財天、天河弁財天、豊川稲荷、など、神社を参拝すると、
おぼろげながらもイメージがつかめる女神たちと違って、
ヌナカワ姫は、彼女が祭られている糸魚川市の天津神社を訪ねても何も見えてこなかった。
外出中だったのか、ぼくとは縁(えん)も縁 (ゆかり)もないのか、
きれいさっぱり空っぽだった。だから彼女については語りにくく感じている。
| 日本翡翠情報センター | comments(0) | trackbacks(0) | posted by YK
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