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オオクニヌシは卑弥呼と同時代に実在した?  11:01
龍
神話伝説は必ずしも歴史と一致するものではない。
それは人類の無意識のなかから織りだされてくる。
ときには権力者によって意図的に編まれる。

けれど、神話伝説が歴史のどのあたりを舞台にしているかを想像できるようになると、
歴史は土器を編年したり、人名・年代を羅列するだけのものではなくなる。
ことに古代史はそれによって血が通うようになり、ご先祖たちが身近かになり、
同時に、自分の心根に古代のエッセンスが埋もれているのを見られるようになる。
心のうちなる古代は、自分という存在の根っこのなんと多くを占めていることか。


はるかな昔、高天原がアマテラス一族が支配する天津神(あまつかみ)たち
の国であるのに対して、地上世界・葦原中国はオオクニヌシが代表する
国津神(くにつかみ)の土地だった。
アマテラスは地上世界も自分の支配下におきたいと欲する。
使者を送るがうまくゆかず、結局は軍事行動にでてオオクニヌシに自決を迫る。
使者が寝返る、軍神は秘密兵器を駆使する、護国軍の参謀は自殺する、など、
まるでゲームのように日本神話は展開していく。
 
国譲りが済んだあと、地上の建国を任されたアマテラスの孫は、
オオクニヌシが鎮まる出雲から遠く離れた日本列島の最西端、日向に降臨する。

ここはアマテラスが誕生した聖地に近い。
日向で3世代過ごして4世代目の神武天皇の時代に
天孫族は奈良盆地にやってきて、大和王朝の始まりとなる。
 
日向の4世代は、ホノニニギから、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)45歳の
紀元前667年まで、179万2470年経ているという
(『倭国』岡田英弘、1977、中公新書)。
SF的なこの数字には仏教の宇宙観の影響があるのだろう。
 
日向は大和王朝最果ての地と思っていたらそうではない。
地図を見ると江南、たとえば上海(シャンハイ)を出た船は
九州南端を回りこむだけで日向に着く。
この土地の遺跡からは古代船・準構造船の埴輪や、
中国大陸でも珍しいほど立派で大きな玉璧(ぎょくへき)が出土している。
 
弥生時代の終盤、日向は北九州や出雲と同じように大陸に向かって開かれた土地であり、
同じように栄えていたようだ。
日向への天孫降臨はまったくのでたらめではないかもしれない。

『古事記』でスサノウとオオクニヌシの冒険談が長々と語られるのは、
歴史上の出雲が強大であったからではなく、
こんなに強い敵を打ち負かした天孫族はさらに偉大であることを誇示するための
作り話とされてきた。
大和から見て死者の国の方向にあたる出雲を悪者にしておけば、
なにかと便利というわけだ。
 
出雲には古代王国の証しとなるような遺跡らしい遺跡がなかった。
畿内を始め列島各地に巨大な古墳が築造されるようになっても、
出雲は出遅れたままだった。神々の流竄は歴史的事実のように思われていた。
 
ところが、前述したように1984年に出雲の荒神谷遺跡から大量の銅剣が出土して、
これまでの仮説は根本からひっくり返されることになった。
さらに追い討ちをかけるように、1996年(平成8年)には、
荒神谷遺跡から直線距離で3.5キロメートルの加茂岩倉遺跡から
1ヶ所の出土量としては全国最多、39個の銅鐸が発掘された。
 
2000年には、出雲大社の境内から、
杉の巨木を3本束ねて直径3メートルの柱にした巨木遺構が発見された。
出雲大社本殿を支えた9本の柱のうちの1本と見られるこの遺構の築造年代は
明らかにされていないようだが、こうした遺跡出土品を並べていくと、 
『出雲風土記』で「天(あま)の下造らしし大神」と形容された
大穴持命(オオナモチノミコト)、すなわちオオクニヌシに代表される一族が
出雲で権勢を誇ったことが推測される。
王国らしい痕跡を見つけにくいということは、
彼らは交易を中心にした商圏を支配していたと考えられなくもない。
 
荒神谷遺跡は弥生時代中期後葉、加茂岩倉遺跡もほぼ同時期、
中期後半から後期初頭の遺跡とされている。
これは『魏誌倭人伝』に記された卑弥呼の時代にほぼ重なり、
大和王朝の始まりと推測されている時期、古墳時代の始まりで、
紀元3世紀の後半、または4世紀初頭あたりともほぼ同じになる。
 
北九州に卑弥呼に代表される連合国があったころ、
日向には江南と交渉のあった日向一族の土地があり、
日本列島の中国地方は山陰側は出雲が、
山陽側は吉備一族がそれぞれ支配していたのだろう。
 
出雲は交易の民であり、この筋書きからいえば、彼らは朝鮮半島に産出する鉄を商っていた
(個人的好みでは辰砂の交易も加えたい)。
調査なかばではあるが、越の国のヌナカワ(糸魚川地方)を中継して
諏訪ともつながっていた。諏訪では酸化鉄(ヘマタイト)や磁鉄鉱(マグネタイト)
中心ではなく、褐鉄鉱を用いた製鉄が始まっていたようだ。

こんな情勢のなかで、出雲のヤチホコという名の首長が越(こし)のヌナカワ姫に妻訪いした。
女首長を征服したというよりも、首長の娘を娶ることで首長の家に入り婿したと考えるほうが、
当時の時代情勢にあっている。だいたいのところ女性が首長であれば、
それなりの人生経験も必要となって、妻訪いしたくなるほど若くないのではないか。
| 日本翡翠情報センター | comments(0) | trackbacks(0) | posted by YK
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