| CALENDAR | RECOMMEND | ENTRY | COMMENT | TRACKBACK | CATEGORY | ARCHIVE | LINK | PROFILE |
若狭路で不老長生探索者たちの足跡をみる・3  10:05
気比神宮
気多大社

<古代の若狭・7> 
気比神宮には着いた日の午後と翌日の朝と2回参拝した。
気比は古くは笥飯と書いて飯櫃を意味した。
ヒは霊・魂、ケは食という。ケを「気」と読むなら霊気の強い土地・神のようでもある。
気比の大神は応神天皇が幼かったころに名前を取り替えた神として知られている。
彼の両親の仲哀天皇・神功皇后とも関連性が深い。
日本地図をみると敦賀と琵琶湖北端との距離の短さに驚き、
若狭を玄関口とした新羅や高句麗との近さに納得する。
応神天皇の時代以降王の墳墓は急激に大型化して、半島伝来のきらびやかな副葬品が増えた。
この繁栄ぶりには朝鮮半島の東側−若狭−大和を結ぶ交易の増大と、
若狭や琵琶湖周辺に入植した移民たちの経済的発展が加味したと想像できる。
越中富山の薬売りや、輪島塗りなどの漆器、若狭のメノウ製品はその時代に根付いたようにも思える。
記憶違いでなければいいのだが、出雲の勾玉制作は
平安時代以降中断していたのを若狭から職人が来て再興し、
甲府の水晶製品は若狭の流れをくむ京都からの職人によって起こされ、
糸魚川での勾玉制作は甲府に習った。新羅あってのことだった。


<古代の若狭・8> 
羽咋(はくい)という難読の地名の土地に着いて、
気多大社に向かうタクシーに乗っている間に俄雨(にわかあめ)が降った。
神社について参道を歩いているうちに小止みになった。
まわりの木々も境内も拝殿も自分も清められてすがすがしさこの上ない。
何年も前から「気比」と「気多」とふたつの神社の名前に引きつけられて、訪ねてみたいと念じてきた。
気多大社の祭神はオオクニヌシで、卑弥呼の時代、日本海の岸辺伝いに交易路をもっていた
出雲の勢力の能登半島の拠点がこの土地だった。
八千矛はここで体勢を整えた後、糸魚川の奴奈川姫を訪ねたのだろう。
良寛の故郷の出雲崎という地名はその名残であるかもしれない。
気多大社はハートフルだった。
朝露のように健やかでのびやかで清らかな「気」が土地を覆っていた。
拝殿で手をあわせると神が機嫌よく笑っているのがわかった。
神社を出て海岸に向かうと風がふき雨足が強まり雷がなった。
傘をあおられながらも趣味の砂のコレクションをして帰路についた。
ここの神社はスーパー凄かった。
(写真は上が気比神宮、下が気多大社、右側の鳥居が入らずの森・原生林への入り口で誰も入れない。)

「咋」(さく・舌つづみを打ってものをたべる、たちまち)
| つれづれなるままに | comments(0) | trackbacks(0) | posted by YK
Comment








Trackback
この記事のトラックバックURL: http://kitade.stonesbazar.lolipop.jp/trackback/1233291
<< NEW | TOP | OLD>>