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<過ぎてゆく日々のこと>のまとめ 7/28−29 2018 09:57
シトリン観音
★7/28<過ぎてゆく日々のこと> 
昨日は一日、HP掲載製品のコメント書きや入力に費やした。
外出もせず昼寝もせず、机の前に座りつづけた。
そうやって観音頭部パーツ(アウトレット/天然石加工品に掲載)のやさしく慈愛いっぱいのお顔を見て、
やっぱり、なんで、ここで、人間をやっているのだろうと考えてしまった。
こんなところへ墜ちてくるなんて、どうしたことなんだ(冗談だけど)。
人間の葛藤の半分以上は対人関係にある。話し相手がいなければ寂しい。
他人が自分を正当に評価してくれなければ腹立たしい(つまり自己評価しているように)、
その上、望みもしない人たちとの付き合いはいらただしい。
自分は大乗仏教徒じゃないので慈悲ということがよくわからない。忍辱ということもよくわからない。
どうやったらアホを愛せるのかもわからない。そんなこんなを考えながら観音菩薩を思う。
窓の外の丘陵の上にゴジラのように巨大な姿をあらわす観音菩薩の姿を幻視すると、
彼/彼女はとがめもせずただ笑みを浮かべている。


★7/28<過ぎてゆく日々のこと> 
自分が30代、40代だったころ、
未来のどこかで自分が70歳の人生を生きているなんて考えたこともなかった。
取材先で高齢の方に会う機会があり、彼らの人生の多彩さに感銘を受けることはあっても、
自分が老人になるなど思いもよらないことだった。
そうやってたくさんの年月を経て、今度は30代、40代の人たちから、取材を受けたりする年齢になった。
かつて自分が老いた人たちを見ていたのと同じように、彼らから見られていることを想像すると、
順送りの生命の連鎖といういことに思いあたる。
なにがしかの縁でなにがしかの関わりがある若い人たちには、
彼らが実りのある人生を歩んでくれるよう願うばかりだ。
そうやってぼくのなかのいくらかは彼らのなかに残っていく。


★7/29<過ぎてゆく日々のこと> 
ずーっと修験道のことを考えている。かつて取材してまわった霊能力者の何人かは修験の行者だった。
霊媒に降りた霊の託宣を拝聴したことがある。
向こう側の世界からテレポーテーションしてきたという小刀を見せてもらったこともある。
霊山での修行の話をいろいろと聞いた。誘われて滝行したこともある。
それでも修験道にはあまり関心をよせてこなかった。
天狗に興味を抱いて関連本の1、2冊を手に取った。
修験道が仏教を軸に神道・道教、民間信仰が渾然一体となった信仰であることがわかり、
その中心にシャーマニズム的な霊的世界との交流があることがわかった。
古代の人たちにとって未来の不安定さは耐えがたいものだった。
祖霊や精霊を招き、彼らの声を聞くことで明日を生きるよすがとした。
縄文時代も弥生時代もご先祖たちは霊の声を聞いた。
招霊がアジア的な宗教の原点で、それが修験道に残っているところが意義深い。
| 過ぎてゆく日々のこと | comments(0) | trackbacks(0) | posted by YK
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