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弥生時代の呪術に勾玉文化の背景をよむ(7) 10:06
古代米
古代米
粟黍稗
<勾玉と弥生時代・16>
「(埴原和郎の仮説による)弥生時代初期から奈良時代初期までの千年間に150万人程度の渡来があり、
大きさ地方差はあるものの、奈良時代初期の人口は血統からみて、北アジア系渡来系が8割
あるいはそれ以上、もっと古い時代に日本列島にやってきて土着化していた縄文系(原日本人)が
2割またはそれ以下の比率で混血した可能性が高いという」p73。『人口から読む日本の歴史』
(鬼頭宏、講談社学術文庫、2000)から。ずーっと縄文時代の推定人口の少なさに戸惑っている。
縄文時代は1万〜1万5千年つづいたんだから、発掘される遺跡の数は多く、
遺跡関連の記事を読むと、縄文人はそこらじゅうにいたかに思ってしまう。
でも全然そうじゃなかった。同書には2900年前、縄文晩期の推定人口として
南関東(千葉・埼玉・東京・神奈川)に3800人、畿内(京都・大阪・奈良)に800人、
などの数字がある。縄文時代は東海から東北にかけての東日本で人口密度が高く、
西日本は極度に引くかった。原因は東日本ではコナラ、クリなど暖温帯落葉樹林の木の実に依存出来、
西日本は照葉常緑樹林に覆われて、カシやシイの実あたりしか食用にできなかったためとされている。


<勾玉と弥生時代・17> 
弥生時代の水田稲作の民は、勤勉に働いてたくさんの米を収穫して飢えることなく暮らした。
縄文人たちは彼らに学んで農耕民族へと転嫁していった。原初のヒッピーたちは定職を得た。
こういう図式には為政者たちが意図した差別意識があるし、演出された文明像がある。
実情はぜんぜんそうではなかったらしい。現代の私たちのように、
欲しいだけ米を手に入れられて、余ったら捨てても平気というふうではなかった。
水田稲作と平行して彼らは畑作もしており、狩猟採集にも頼っていた。
米はハレの食べ物、ご馳走で、ふだんは雑穀類や芋などが中心の食生活だった。
というようなことが『日本の古代4 縄文・弥生の生活』(森浩一編、中央公論社、昭和61)に書いてある。
その米も白米中心ではなく写真のような赤米黒米といわれるもので、粒揃いではなかったらしい。


<勾玉と弥生時代・18> 
たまたま知人から日本翡翠原石(糸魚川翡翠)を譲り受けて、他の天然石といっしょに勾玉を制作したら、
意外なほどの人気だった。それから日本の古代史について学びはじめた。
栽培植物がいつ始まったのか、水田稲作の前には焼き畑があったというが、
それがどの地域でどれほどの規模だったのか、いまだに詳しくを知らないままでいる。
石ヤには石ヤの仕事があって、神秘主義ファンには神秘主義の知識を深めたい欲求もある。
それでついつい古代史探求は後回しになる。
それでも文献のなかに粟(アワ)・稗(ひえ)・黍(きび)という単語がでてくるたびに、
それがどういうものか知りたいと思った。いずれも縄文と弥生の境界あたりで列島に持ち込まれた穀物だ。
現物を手に入れてみると、粒の小ささに泡を食った。
農耕生活は大変な大仕事で、狩猟採集民の気楽さをうらやんだ。
彼らとて決して気楽ではなかっただろうけれど。(写真は左からアワ・キビ・ヒエ)

| 過ぎてゆく日々のこと | comments(0) | trackbacks(0) | posted by YK
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