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クリシュナムルティ関連の本を読んだ、久し振りだった  09:49
翡翠丸玉
<読書記録> 
『回想のクリシュナムルティ第一部』(イーブリン・ブロー、大野純一訳、コスモス・ライブラリー、2009)。
何年かに一度、クリシュナムルティ(1895-1986)に戻ってくる。
数年おきに好みの神社仏閣に詣でるようなものだ。
遠い昔から現代にいたるまで救世主信仰が途絶えたことがない。
宗教家たちにとってはとっておきのレシピのようなものなんだろう。
クリシュナムルティは、宗教団体神智学協会が世界教師を宿す霊媒となるよう育てたインド人で、
1929年、34歳のとき脱世界教師宣言をして、神智学協会と袂をわかった。
彼は宗教的な世界教師を止めて精神世界の世界教師になった。
トランス・ヒマラヤの大師と霊的に合体していたらしいところに興味が尽きない。
クリシュナムルティについては多数の翻訳本が出版されていて、日本にもたくさんのファンがいる。
天然石ファンにとっては神智学は馴染みが深い。翻訳ものの天然石関連本はそうと明記されていなくても、
ほとんどが神智学の影響のもとにある。オーラソーマも同様だ。
神智学に関心を抱き、ついでインド古来の思想に興味をもつと、
天然石のパワー効果で使われる用語はヨーガのものであっても、
だいぶ古代の叡智から離れていることがわかってくる。


<読書記録> 
『回想のクリシュナムルティ第2部』(第一部に同じ)
神智学協会を離れて以降他界するまでのクリシュナムルティについて、
たくさんの関係者のインタビューやエッエイで構成されている。
こうした趣旨の本は、主役のエピソードにふれるには貴重な資料になるが、
新興宗教の教祖をみんなでたたえる本みたいでもある。
クリシュナムルティはさまざまに条件付けられた自分像(自分で思い描く)の数々を脱ぐことで
魂の自由を得られると説いた。そのため彼は権威主義を嫌った。
権威に従属するかぎり真の自由はないとした。その延長線において、あらゆる宗教の権威を認めなかった。
自分が教祖のように思われて、追随者たちからあがめられることは不本意なことだった。
それなのに権威への従属をよしとするたくさんのファンからあがめられた。
クリシュナムルティのほかにも、ラーマクリシュナ、シルディ・サイババ、ラーマナマハリシ、
など近代になってもインドは不世出の聖者を育ててきた。そういうインドの風土の特異性を不可思議に思う。
彼らを人類が霊的に進化した未来のさきどりとする見方に魅力を感じるとともに戸惑っている。


<クリシュナムルティ> 
宗教団体神智学協会がいう「世界教師」は救世主マイトレーヤの来訪にさいして霊媒となる人物のことで、
世界教師の教育にはチベットのシガツエに住むインド人やチベット人で大師とよばれる聖者があたった。
大師たちは生身の身体を持ちながらクリシュナムルティのもとへテレポーテーションしてきたり、
チャネリングしてコンタクトした。脱世界教師宣言をして、神智学協会と袂をわかったあとも、
ヒマラヤの大師の要請があったのだろう。クリシュナムルティは世界各地での講演をつづけた。
講演会場に着くまで頭は白紙のままだが、演壇にたつと言葉がつぎつぎとわいてくるというようなことを、
どこかで書いている。内なる力は向こう側からやってきた。
彼の教えの核心はインドの伝統的な思想にあって、事物への執着から離れることで
平穏や清澄さが得られると説く。彼の著作を読むと心が洗われてゆく気持ちになれる。
けれどこちら側の社会は競争社会で、商売をするのであれば在庫を気にしなくてはならず、
会社員であれば仕事のほかに対人関係など山ほどの難題と対処しなくてはならない。
心静かに満ち足りた時を持続するのは難しい。
そうやってときおりはクリシュナムルティの著作を開いて世界の豊穣さと日常性の貧困さを思いやる。
| 過ぎてゆく日々のこと | comments(0) | trackbacks(0) | posted by YK
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